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小説家、反ワク医師、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、反ワク医師、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

三島由紀夫の文化防衛論

2016-08-24 16:17:59 | 考察文
三島由紀夫が、早稲田大学の学生と話をしている、動画がある。

かなり前の、今年になってから、出てきた。

東大全共闘は、三島由紀夫と対立していたが、早稲田大学の学生は、三島由紀夫を、「先生」、と、呼び、学生運動も、していない。

というより、早稲田の学生でも、学生運動をしていた、生徒は、たくさん、いたろうが、三島由紀夫の講演会には、学生運動をしている学生は、出ていない、という方が正しい。

その「9」番目の動画で、早稲田の学生が、三島由紀夫が、40歳過ぎて、生きていることから、若くして死ぬ気はなかったのでは、ないか、と三島由紀夫に、質問した。

しかし、これは、誤りである。

太平洋戦争は、三年半の戦いだった。

三年半で、終わった戦争、といえば、後から考えると、短いように思われてしまう。

しかし、これは、完全な結果論、事後考察である。

戦争している国、や、国民は、この戦争が、いつまで、続くのかは、わからないのである。

わからないと、戦争という性質から、人間は、長引くだろう、と思ってしまうものである。

ましてや、日本は、広島に、原爆を落とされた後でも、本土決戦を主張し、特攻隊を続け、一億総玉砕するまで戦う、気でいた。

若者は、二十歳までの命、と、教育された。

つまり、日本人は、敗戦の色が濃くなるにつれ、もう、死ぬ運命だと覚悟していた。

もちろん、三島由紀夫も、死を覚悟した。

後から、太平洋戦争を見ると、激戦とはいえ、三年半で終わった、短い戦争だったが、当事者には、戦争で、死ぬことが、日本人の宿命として、決まっていた、精神状態だったのである。

だから、三島由紀夫は、死を本気で覚悟していた。

しかし、日本の、文化、歴史、伝統、天皇制、それらを、すべて壊すと、考えていた、鬼畜米英は、日本を民主主義国家にした。

(これは、ソ連の脅威に対抗するための極東軍事基地という目的もあったが)

三島由紀夫は、美しく死ぬためなら、太宰治のように、女との情死でもいい、と言っていた。

つまり、美しく死ぬためなら、その方法は、何でも良かったのである。

さらに、「美しく死ぬための方法をたくらんでいる」、とまで言った。

これから、わかるように。

昭和45年11月25日の、三島由紀夫の、自決は、自分が、美しく英雄的に死ぬための手段であって、「自衛隊の違憲性」、に対する憤りの諌死では、全くないのである。

何か、政治的な矛盾、なら、何でも良かったのである。

しかし、自分が、美しく英雄的に死ぬための手段として、無法的なことをするというのは、傍迷惑なこと、である。

(世間の人間は、みな三島由紀夫にだまされている)

しかし、三島由紀夫が言う、「果たしていない、たった一つの約束」、つまり、遺書を書いて、死を覚悟して、他の学友が戦死していったのに、自分が生き延びた、ことに、対する、罪悪感、は、三島由紀夫の純粋な思いである。


しかし、夭折の美、とか、若くして英雄的に美しく死ぬ、などというのは、漫画や、テレビドラマや、小説や、映画などの、フィクションのお話の中で、主人公に、させるのならいいが。そして、あくまで、フィクションのお話の中だけで、とどめておくべき事である。

それに、本気で憧れて、それを現実に実行するなど、不謹慎、きわまる、狂った考えである。

三島由紀夫という、社会的にも、モラルがある、天才作家が、言っているので、誰も、それを、「不謹慎」、だと、言わないだけである。

多くの人が言うように。

「人間には生きる権利があるのと同時に、生きる義務がある」

のである。

僕、個人としては、自殺を無条件に悪いとは、全く思わない。どうしても、仕方のない自殺というものは、僕はあると思うし、認める。

しかし、人間は、安っぽく、死んでは決してならない。

歳をとるのは、つらいことだが、それは、我慢しなれば、ならないのが人間の宿命である。

運動し、食を節し、健康に気を使っていれば、若さは、かなり保てるのである。
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