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病気とは何か

2008-04-14 02:27:31 | 医学・病気
病気とは何か

(大学二年の時、哲学レポートととして書いたもの)

病気は患者にとって、いかなる意味を持つものであろうか。
また病人でなくても人は誰でも病気になる可能性を持っているものであるから、人間にとっての病気の意味といっても同じである。
まず病気には先天的なものと、後天的に発病したものとに分けられるであろう。しかし後天的な病気も、その病を発病させる素因を先天的に持っていて、起こるべくして起こったというケースが多いものである。また、病気には自らの不摂生によってまねいた病気もあるであろう。しかし一度病気にかかったならば、それに取り組まなくてはならない、という点では同じである。
病気の種類は星の数ほどあるが、いうまでもなく人間の意志でそれを選ぶことも避けることも出来ない。病気は自分以外のものの意志によって選ばされ、おわされるものである。そういう点で人間とはきわめて受動的な存在である。
しかしそれは何も病気に限ったことではなく、生、老、病、死、という人生そのものが受動的なものである。しかしそれをどう捉え、どう取り組むか、という決定は人間に与えられたものである。
このように人間は受動と能動の狭間でしか生きられない存在である。それゆえ人間は完全に自分の意志で人生を決定することは出来ない。受動と能動の狭間で苦悩する姿に真の人間の生はある。
誰にとっても病気は忌み嫌うものである。病気は生に制限をつける障害物である。病気は生に制限をつける障害物である。しかし病気は人間がこの世に生まれたこと、そして死ななくてはならないという事実と同様、人間の不条理なる宿命である。
病気とは生にほかならない。主体的に病気に取組むという事は主体的に生きるという事に他ならない。
一般的に病気とは医者が治すものであるという観念が強いように思われる。しかし病気は患者の人生そのものであり、治療を医者におまかせするというのは信頼ではなく、自分の人生を主体的に生きることの放棄である。
もちろんある場合には、医者を信頼することなしに医療は成り立たない。しかし、その場合でも医者に対する盲目的な依頼心であってはならない。
 ある医者を選び、その医者を信頼する決断を下したのが患者の主体的な意志であれば彼は主体的に病気に取り組んでいるといえるのである。
 治療方針の決定権は患者にある。医療とは患者(8割)、医者(2割)の共同作業である。病気に対する知識においても、たかだか数分の問診や検査と一般的医学知識をもって患者より上だと決めてかかるのは、長年にわたり24時間、無休で病気と格闘し、病気と共に生きてきた患者に対するこの上ない非礼である。医者には患者が病気から受ける感覚までは理解することはできない。しかしある場合には医者は患者が病気から受ける感覚を理解できる場合もある。それは医者が患者と同じ病気を持っている場合である。
病気は個人に特有のものである。病名は同じであっても症状や病気から受ける感覚は十人十色である。それは体質が異なるからである。また患者が自分の病気を自分の人生にどのように位置づけているかも各人で異なる。それは患者の価値観に基づく。医療はそれらを無視して成立しえない。また医療者も価値観を持っている。とすれば医療は異なった価値観のぶつかりあいである。ある場合には共感が起こるであろうし、ある場合には価値観の対立が起こるであろう。医療とは人間的対話であり、そこからよりすぐれた価値観を医者も患者も見出さなくてはならない。
 病気とは精神と不可分のものである。肉体と精神を結び付けているものは自律神経と各種のホルモンである。
 自律神経は内臓諸器官及び内分泌系を支配する不随意神経であり、その中枢は脳幹の一部である視床下部にある。脳幹は人間の意志と独立した生命維持の自動制御を行っているが、ここは人間の情動や欲求をつかさどる大脳辺縁系の影響をも受ける。強い不安感があるときに消化器系は良好に作動しないし、緊張や驚きは心臓の拍動をつよめる。逆に体の不調は感覚神経によって大脳に不安感を引き起こす。さらに辺縁系は新皮質と密接不可分である。動物は未来に不安を持つことはないし、過去を悔いる事もない。人間として生きるということは欲求や情動を押さえて生きるということである。また人間はあらゆることに疑問を抱き、苦悩する。
健常者の体は体内フィードバック機構によってバランスがとれているのであるが、それは病体でも同じである。ただし、病体では狂ったバランス状態である。人間の脳は、語学の習得やスポーツの技の体得のように根気よい反復によって神経細胞に疎通が起こる。それは病気の場合にも起こりうる。長期間の外界あるいは内部からの何らかの刺激の継続は辺縁系から視床下部へのある種の疎通を起こす。かくして生体におかしなバランスが出来上がる。どの器官に症状が現れるかは個人の体質にもよるし、その原因によって様々である。どのようなバランスが出来上がっているかは個人によって異なり、治療は個人の性格と、今までどのような生き方をしてきたかという歴史をみることなしに成立し得ない。
 個性的な人ほど個性的な病気にかかるものである。病気はその人の生き方の現れであるからである。
 病気ではなく人間を診る医療に既存のマニュアルは役立たない。医者自ら研究し、創造しなくてはならない。
 個人の病気を治す方法の発見は小さいながらも一つの真理の発見である。真理の発見がいかに困難なものかは歴史が示すところである。しかし一般的真理の発見と違って、個人の真理の発見は何ら社会的評価を受けることはないであろう。もっとも個人の中の何かの発見の中には普遍的なものが含まれているのであるが。
 また人間を診る医療は病院の勤務医においては点数を上げられない無能者とされ、開業しても赤字であろう。人間をみる医療は職業としては成り立たないものであり、また職業としてはならないものである。
 一般的に人間は文明が進み物事が便利になるほど、その便利さにかまけて怠けるものである。現代は夥しい情報を手に入れる事が出来る。だから自分で考えるより情報入手に熱心になる。
 現代は既存の科学に安易に頼りすぎる傾向がある。それは信仰にも近い。しかもその信仰の対象はなまじ真理であるだけに余計たちが悪い。その信仰とは科学がすべての問題を解決してくれるという信仰である。
 確かに科学のおかげで治った病気は多い。しかし病気はこの世から無くなりはしない。文明のもたらす便利さ、快適さは人間の生の意識を希薄にし、病気は忌み嫌うものという観念をもたらす。これでは人は病気になっても、病気から回復してもともに幸福感は得られない。この堂々巡りの病状を阻止する妙薬がある。それが哲学である。
 一般的に科学者ほど哲学を軽視する傾向があるように思われる。彼らは哲学を非科学的なもの、と捉えているのではなかろうか。あるいはわかりきった事と捉えているのではなかろうか。だが哲学は科学的な思惟であり、科学に矛盾しない。いや、科学そのものである。そして哲学とはおそらく答えが出せないものへの挑戦であり、それは神に対する挑戦である。それはバベルの塔を築こうとするあわれな人間の姿に似ている。
答えが出せないものならば求めるのをやめてしまった方が合理的であろう。しかし哲学をする人とは答えが出せないとわかっていながら求めずにはいられない因果な人間である。
 医療者にとっては医療はその一挙手一投足が哲学と不可分の関係にあるといっても過言ではない。
 また真に科学的であるという事は、この上なく厳しいものである。患者は最新の医療機器を前にした時、最良の科学的治療を受けている気持ちになる。しかし、科学とは物事を一切の先入観なしに観察し、考究することである。科学とは創造に他ならない。
 そもそも人間の体には自然治癒力が備わっている。人間の体には自己を守ろうとする機構しか存在しない。病気の発症も、体が自己を守ろうとした結果生じている場合が多いものである。アレルギーはよい例である。しかし例外も存在する。たとえばガン細胞は体内に発生した異物であり、ガン細胞はガン細胞自身のために増殖を行い、人体を破壊しようと行動する。
 後者のような場合は別として、前者のような場合の治療は如何にあるべきであろうか。
 たとえば喘息を考えてみる。喘息は気管支の副交感神経の過緊張によって起こるが、これは副腎からのアドレナリン、ステロイドホルモン分泌不足による。これに対し、ステロイドホルモンを体外から注射する行為は、緊急の場合は止むを得ないが、一時的には症状をおさえても副腎の機能をますます弱めるだけである。
 それとは逆に体を鍛錬すると副腎の機能が向上し、アドレナリンを分泌しはじめる。さらに脳が活発に活動していると脳内にアドレナリンが分泌する。
 だが、アレルゲンや発症の複雑なメカニズムは各人で異なる。
 体質は性格の影響も受けており治療は性格を変えることまで要する。これは患者が自覚して自己を知ろうとし、主体的に自己改革をする気を持たない限り、お仕着せの治療をしても奏功しない。
 では医者の役割とは何であろうか。
 医者の役割は患者に、病気に対する正しい認識を持たせること、患者の努力が誤った方向に向かわないように指導する事である。医者は患者を一人歩き出来るように導くものである。そういう意からして医者とは教育者である。
「教育の目的は各人が自己の教育を継続できるようにする事にある(デューイ)」
才能のある患者は医者を利用する事はあっても、医者によってすがる事はない。
 医者が患者の病気のみを診て、患者は黙って医者の言う事を忠実に守るという関係は、研究者がモルモットをあつかう図と何ら変わりはない。それは人間対人間の関係ではない。我々の暮らしが豊かになったのは分業のおかげである。しかし、分業してはならないものもある。生の思索は哲学者におまかせしておいてよいものではない。全ての人が多かれ少なかれ自分の人生そのものである病気の主治医とならなくてはならない。患者にとって、その病気を治す治療法はすでに存在している。ただ発見できないだけである。
治療法とは作り出すものではなく、探し求めるものである。価値あるものほどそれを手に入れるための代償は大きい。病気は必ず治す方法が存在する。それは、医者まかせでも、自己満足の健康法でも治らない。それは病気の克服に命をかけて取り組む患者の執念でしか発見できない。

病気の中には治りえない病気もある。その場合、病気は患者に苦しみしか与えない。しかし、絶望的情況の中にあって精神を気高く保ち、生きる意味と希望を求める姿ほど人間として価値ある行為はない。それは目立たぬ人生であるために人に評価されることは無いかもしれない。
 哲学者の柳田謙十郎は次のように述べている。
「人間は得意である時よりも失意に悩む時においてより深く人間的である」
 患者の病気を治すことができるのは何であろうか。医者の才能であろうか。根気強い努力であろうか。おそらくそれはその努力を支えるガソリンが何であるかにかかっているのではないか。
 幸福について作家の佐藤春夫は次のように述べている。
「幸福などというものは世の中にありはしない。それぞれの人間がそれぞれに一つずつ不幸を持っていて、その不幸を癒すためにこそ生きているのだ」
人間の心ほど矛盾したものはない。病気は怨敵であると同時に生きる目的でもある。いわばライバルである。矛盾した欲求が人間の情熱を持続させている。人は誰でも苦しいことから避けようとし、楽しい事の中に幸福を求めようとする。確かにそのようにして幸福を手に入れる事ができる時もある。しかし幸福は絶えず消滅の危機にさらされている。我々は苦難を幸福によって埋め合わせる事によって希望を持とうとする。しかし苦難の中にも幸福はある。幸福感のうち、苦難を長い期間の努力と忍耐によって克服した時の喜びほど大きいものはないだろう。
我々は能力や健康に恵まれたものを羨む。能力のある者が一年で身につけられるものを能力のないものは一生かけなければ身につけられないかもしれない。
しかし、旅をする時、徒歩で目的地まで行った人に対して、急行で目的地まで行った人には旅の素晴らしさはわからない。自分の欠点から目を背け、長所のみを伸ばす事にのみ喜びを求める事にはどうしても無理がある。
欠点を克服する事に喜びを求めようとしたら、全てのものが新鮮に見えるだろう。
病気の意義もそこにある。病気ほど生きた勉強はない。これを真っ向から取り組む時、そこから得られるものは、はかりしれない。そして人生の謎が解けた時ほど嬉しいものはない。
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