春琴抄
春琴は美しいアゲハ蝶である。その美しさには春琴が通る時、心の内からたとえようもない、美しさ、心の純真さ・・に魔法にかかったかのように魅せられないものはいないほどである。春琴自身それを逆に感じとり、恥ずかしく顔を赤らめるのだった。
春琴には彼女にふさわしい逞しく美しい雄のアゲハ蝶の彼Nがいた。二人はともに愛し合っていた。しかしどちらかというと、少し心にたよりなさのある春琴を守りたい・・・という彼の思い、が二人の関係だった。
二人はこのおとぎの国の美と愛の象徴だった。
あるポカポカはれた春の日、春琴は、彼女の仲間の蝶とともに少し遠出した。春琴一人では、まよいそうになるほどのキョリのある場所だった。春琴は少しポカンとしたところがあって道に迷いやすい。だが仲間はしっかりした方向感覚をもっていて道に迷うことはない。心地よい陽光のもと、流れるさわやかな微風に身をのせて、いくつか野をこえ原をこえた。
そこはジメジメしたうす暗い所だった。仲間がキャッ キャッとさわいでいる。よくみると、そこにはクモの巣の糸がはってある。木陰にじっとかくれているクモを仲間がみつけたらしく、からかいのコトバをかけている。
クモは陰湿な方法でエモノをとる。しかしアミにかかりさえしなければ安心であり、手も足もだせなくてくやしがってるクモをからかうのは何とも、スリルと優越感があっておもしろい。
「みなよ。あんなみにくいヤツがエモノがかかりはしないかとものほしそうにまってるよ。」
と一人が言うと、みなが笑った。
みながクモにツバをはきかけるとクモはくやしそうにキッとニラミ返した。
「お前ら。おぼえてろよ。」
というと、みなはますますおもしろがって笑った。
「春琴。あなたもからかってやりなよ。」
と仲間にいわれて春琴はクモに近づいてクモをじっとみた。
春琴の心にはまだいたずらっぽさ、オテンバさ、も十分あった。春琴は、それがいやがらせだと知って、クモをじっとみながら自分の美しさをみせつけながら、そうしている自分に酔い、「ふふふ。」と笑った。クモは恥ずかしそうにコソコソとかくれてしまった。
そのあと、蝶たちは、もと来た野をもどり帰ってきた。こわいもの、みにくいもの、みたさは春琴にもある。こわいもの、おそろしいものをみると自分が自由であることを実感できる。その夜、春琴は自由を実感して心地よく寝た。
翌日、仲間達は春琴に、昨日、あそこへ行ったのはクモをからかいに行くためもあったけれど、それに加えて、キケンな場所を春琴に教えるため・・もあったのだと言った。春琴は時々、みなから離れて一人行動するところがあるから気をつけるように、と注意した。
その年の夏の暮れ、ちょうど以前、あの暗いクモの巣のある所にいったような日のことだった。春琴のこわいものみたさ、は一人でいる時つのって、どうにもおさえきれなくなり、何回かクモを見に行っては、じっとだまってクモをみていた。そして優越感まじりのキョリをとった思わせ振りをして無言のうちにみくだし自分に酔う酩酊をおぼえていた。
その日、いつものようにクモはいないかと春琴が近づいた。少し近づきすぎた。
「あっ。」
と春琴が悲鳴をあげた時には、春琴の片方のハネ先が糸にくっついてしまっていた。生と死をわける、死の方への粘着である。春琴があせればあせるほど片はねが両はねへ、そして全身へと糸がどんどんからまっていく。もがけばもがくほど糸はどんどんからまっていく。春琴はこの時、神にいのった。「ああ神様。助けて。」
あるいはクモが奇跡にも死んでくれないかと。あるいは仲間の誰でもいい、誰かここへきて、こうなってしまっているのでは、と感づいて来てくれはしないかと。だがざんねんなことにそのどれもきかれないのぞみ、だった。
「ふふふ。」
とクモが、してやったりと、とくい顔であらわれた。
「いや。こないで。」
と春琴がいうと、クモは、止まって、笑いながら春琴の無駄な苦闘をみている。さもたのしそうである。クモはこうして巣にかかったエモノが一人であがき、つかれはてるのをまってから、毒エキを入れ、たべてしまうのである。春琴もそれと同じ運命になるしかない。むなしくあがき、つかれはててグッタリと力なく、うなだれてしまった。ころあいをみはからってクモは春琴の真近にまで来て、春琴の顔をじっとながめた。いつもと逆の立場にたたされた春琴は顔を赤らめ、そむけた。これほどブザマなことはなかった。そして死の恐怖のため、目を閉じて観念した。クモは春琴に
「ふふふ。」
と笑いかけ、
「どうした、いつものいきおいは。よくも今までからかってくれたな。」
と言った。春琴はもう死の覚悟ができていた。むしろこんなブザマな死にざまを誰にもみられないようにといのりたいくらいだった。クモが春琴の体に触れた時は、さすがに春琴も
「あっ。」
と言って身震いした。こんな気持ちの悪いものに触れられてる、と思うと、死を覚悟していても背筋がゾッとする。だがクモは殺す前に思う様、彼女をなぶりあそんでから、と思っているらしく、気色の悪い、執拗な愛撫がはじまった。クモは時々、からかいの言葉をかけながら、春琴の体をくまなく這うように愛撫した。するとどうしたことだろう。はじめはただただ死ぬ以上に気味悪く体を硬くふるわせていた春琴に、不思議な別の感情がおこってきた。それは自分ほど美しいものがかくも醜いものになぶられ、もてあそばれ、そして殺される、という実感。それはいつしか徐々に、そしてついにそれは最高のエクスタシーになっていた。春琴は自分の体から力がぬけていくのを感じた。春琴はもてあそばれることに、おそるおそる身をまかせた。今みじめにも復讐され、もてあそばれ、そして数時間後に自分は殺されて死んでしまっている、という実感を春琴は反芻した。するとそれは、そのたびいいようのないエクスタシーを春琴に返した。クモはあたかも春琴の心をさっしているかのように時々笑う。しかし愛撫の手はやめない。心をさっされると思った時、春琴は、それをさとられることを死ぬ以上におそれた。そして、何とかあざむこうと声をふるわせて言った。
「こ、殺すならはやく殺して。」
だがクモは笑って愛撫をつづける。かなりの時間がたった。春琴の頭からは、すべての想念がなくなり、クモは、春琴の体からはなれた。毒エキの針をさされることを春琴は待った。自分が、今から殺されると思うと、最高の快感で身震いした。だが、春琴はずっと目を閉じていたので、わからないのだが、再び、クモが触れてきた動きは今までとは何か様子がちがう。春琴は自分の体が軽くなっているのに気づいた。目をあけるとクモはいつのまにか、糸をとる油で春琴の体を糸からはなしてしまっていた。はばたくと春琴はプツンと糸から離れて自由の身で宙に舞うことができた。よろこびよりも虚無感が春琴の心をしめていた。辺りの野は一面、けだるい晩夏の午後の陽光に照らされて、静かに燃えるような熱気を放っている。だが相対して目の当りにクモをみた時、春琴は言いようのない恥ずかしさをおぼえた。クモは口元に笑みをうかべ、
「君はまたきっとくるよ。」
と言った。春琴は恥ずかしくなってその場を去った。数日が過ぎた。春琴はうつろな思いで数日を過ごした。仲間が、春琴が近ごろ姿がみえないのでどうしたのか、と思って春琴のところにきた。だが春琴はうなだれて、うつろな表情で一人でいる。春琴にも何か考えごとがあるのだろうと仲間は帰って行った。日がたつにつれ、春琴はいてもたってもいられなくなった。いいようのない感情が起こり、それが春琴を悩ませていた。春琴は相愛の相手であるNと結ばれた。みなが祝福した。幸せな日々がしばらくつづいた。しかし日がたつにつれ、春琴は再び持病のように、あのいいようのない不思議な感情におそわれだした。夜、春琴は夫に自分を何からも守り、愛してくれるよう求めた。夫はそれにこたえ、春琴を力強くだきしめた。二人は幸せになった。夫は逞しく、美しく、春琴を愛し守ってくれる。春琴にも、もとのあかるく、無垢で、純真な笑顔がもどった。だが時々、フッと一人で考えてしまうような時、何かのひょうしに気のまよいがでてしまうのだった。それはあの暗い、こわい、そしてつらく恥ずかしい、死を求める感情だった。小さな幸せの国。美しいアゲハ春琴と逞しいアゲハNがエンペラーのような象徴として調和をたもっている平和な国。しかし、春琴には時々、暗い感情がおこる。それに悩まされ、時々春琴はあの暗い場所を求めにいってしまう。その後、春琴は、クモは、Nはどうなったか。それは作者も知らない。
春琴は美しいアゲハ蝶である。その美しさには春琴が通る時、心の内からたとえようもない、美しさ、心の純真さ・・に魔法にかかったかのように魅せられないものはいないほどである。春琴自身それを逆に感じとり、恥ずかしく顔を赤らめるのだった。
春琴には彼女にふさわしい逞しく美しい雄のアゲハ蝶の彼Nがいた。二人はともに愛し合っていた。しかしどちらかというと、少し心にたよりなさのある春琴を守りたい・・・という彼の思い、が二人の関係だった。
二人はこのおとぎの国の美と愛の象徴だった。
あるポカポカはれた春の日、春琴は、彼女の仲間の蝶とともに少し遠出した。春琴一人では、まよいそうになるほどのキョリのある場所だった。春琴は少しポカンとしたところがあって道に迷いやすい。だが仲間はしっかりした方向感覚をもっていて道に迷うことはない。心地よい陽光のもと、流れるさわやかな微風に身をのせて、いくつか野をこえ原をこえた。
そこはジメジメしたうす暗い所だった。仲間がキャッ キャッとさわいでいる。よくみると、そこにはクモの巣の糸がはってある。木陰にじっとかくれているクモを仲間がみつけたらしく、からかいのコトバをかけている。
クモは陰湿な方法でエモノをとる。しかしアミにかかりさえしなければ安心であり、手も足もだせなくてくやしがってるクモをからかうのは何とも、スリルと優越感があっておもしろい。
「みなよ。あんなみにくいヤツがエモノがかかりはしないかとものほしそうにまってるよ。」
と一人が言うと、みなが笑った。
みながクモにツバをはきかけるとクモはくやしそうにキッとニラミ返した。
「お前ら。おぼえてろよ。」
というと、みなはますますおもしろがって笑った。
「春琴。あなたもからかってやりなよ。」
と仲間にいわれて春琴はクモに近づいてクモをじっとみた。
春琴の心にはまだいたずらっぽさ、オテンバさ、も十分あった。春琴は、それがいやがらせだと知って、クモをじっとみながら自分の美しさをみせつけながら、そうしている自分に酔い、「ふふふ。」と笑った。クモは恥ずかしそうにコソコソとかくれてしまった。
そのあと、蝶たちは、もと来た野をもどり帰ってきた。こわいもの、みにくいもの、みたさは春琴にもある。こわいもの、おそろしいものをみると自分が自由であることを実感できる。その夜、春琴は自由を実感して心地よく寝た。
翌日、仲間達は春琴に、昨日、あそこへ行ったのはクモをからかいに行くためもあったけれど、それに加えて、キケンな場所を春琴に教えるため・・もあったのだと言った。春琴は時々、みなから離れて一人行動するところがあるから気をつけるように、と注意した。
その年の夏の暮れ、ちょうど以前、あの暗いクモの巣のある所にいったような日のことだった。春琴のこわいものみたさ、は一人でいる時つのって、どうにもおさえきれなくなり、何回かクモを見に行っては、じっとだまってクモをみていた。そして優越感まじりのキョリをとった思わせ振りをして無言のうちにみくだし自分に酔う酩酊をおぼえていた。
その日、いつものようにクモはいないかと春琴が近づいた。少し近づきすぎた。
「あっ。」
と春琴が悲鳴をあげた時には、春琴の片方のハネ先が糸にくっついてしまっていた。生と死をわける、死の方への粘着である。春琴があせればあせるほど片はねが両はねへ、そして全身へと糸がどんどんからまっていく。もがけばもがくほど糸はどんどんからまっていく。春琴はこの時、神にいのった。「ああ神様。助けて。」
あるいはクモが奇跡にも死んでくれないかと。あるいは仲間の誰でもいい、誰かここへきて、こうなってしまっているのでは、と感づいて来てくれはしないかと。だがざんねんなことにそのどれもきかれないのぞみ、だった。
「ふふふ。」
とクモが、してやったりと、とくい顔であらわれた。
「いや。こないで。」
と春琴がいうと、クモは、止まって、笑いながら春琴の無駄な苦闘をみている。さもたのしそうである。クモはこうして巣にかかったエモノが一人であがき、つかれはてるのをまってから、毒エキを入れ、たべてしまうのである。春琴もそれと同じ運命になるしかない。むなしくあがき、つかれはててグッタリと力なく、うなだれてしまった。ころあいをみはからってクモは春琴の真近にまで来て、春琴の顔をじっとながめた。いつもと逆の立場にたたされた春琴は顔を赤らめ、そむけた。これほどブザマなことはなかった。そして死の恐怖のため、目を閉じて観念した。クモは春琴に
「ふふふ。」
と笑いかけ、
「どうした、いつものいきおいは。よくも今までからかってくれたな。」
と言った。春琴はもう死の覚悟ができていた。むしろこんなブザマな死にざまを誰にもみられないようにといのりたいくらいだった。クモが春琴の体に触れた時は、さすがに春琴も
「あっ。」
と言って身震いした。こんな気持ちの悪いものに触れられてる、と思うと、死を覚悟していても背筋がゾッとする。だがクモは殺す前に思う様、彼女をなぶりあそんでから、と思っているらしく、気色の悪い、執拗な愛撫がはじまった。クモは時々、からかいの言葉をかけながら、春琴の体をくまなく這うように愛撫した。するとどうしたことだろう。はじめはただただ死ぬ以上に気味悪く体を硬くふるわせていた春琴に、不思議な別の感情がおこってきた。それは自分ほど美しいものがかくも醜いものになぶられ、もてあそばれ、そして殺される、という実感。それはいつしか徐々に、そしてついにそれは最高のエクスタシーになっていた。春琴は自分の体から力がぬけていくのを感じた。春琴はもてあそばれることに、おそるおそる身をまかせた。今みじめにも復讐され、もてあそばれ、そして数時間後に自分は殺されて死んでしまっている、という実感を春琴は反芻した。するとそれは、そのたびいいようのないエクスタシーを春琴に返した。クモはあたかも春琴の心をさっしているかのように時々笑う。しかし愛撫の手はやめない。心をさっされると思った時、春琴は、それをさとられることを死ぬ以上におそれた。そして、何とかあざむこうと声をふるわせて言った。
「こ、殺すならはやく殺して。」
だがクモは笑って愛撫をつづける。かなりの時間がたった。春琴の頭からは、すべての想念がなくなり、クモは、春琴の体からはなれた。毒エキの針をさされることを春琴は待った。自分が、今から殺されると思うと、最高の快感で身震いした。だが、春琴はずっと目を閉じていたので、わからないのだが、再び、クモが触れてきた動きは今までとは何か様子がちがう。春琴は自分の体が軽くなっているのに気づいた。目をあけるとクモはいつのまにか、糸をとる油で春琴の体を糸からはなしてしまっていた。はばたくと春琴はプツンと糸から離れて自由の身で宙に舞うことができた。よろこびよりも虚無感が春琴の心をしめていた。辺りの野は一面、けだるい晩夏の午後の陽光に照らされて、静かに燃えるような熱気を放っている。だが相対して目の当りにクモをみた時、春琴は言いようのない恥ずかしさをおぼえた。クモは口元に笑みをうかべ、
「君はまたきっとくるよ。」
と言った。春琴は恥ずかしくなってその場を去った。数日が過ぎた。春琴はうつろな思いで数日を過ごした。仲間が、春琴が近ごろ姿がみえないのでどうしたのか、と思って春琴のところにきた。だが春琴はうなだれて、うつろな表情で一人でいる。春琴にも何か考えごとがあるのだろうと仲間は帰って行った。日がたつにつれ、春琴はいてもたってもいられなくなった。いいようのない感情が起こり、それが春琴を悩ませていた。春琴は相愛の相手であるNと結ばれた。みなが祝福した。幸せな日々がしばらくつづいた。しかし日がたつにつれ、春琴は再び持病のように、あのいいようのない不思議な感情におそわれだした。夜、春琴は夫に自分を何からも守り、愛してくれるよう求めた。夫はそれにこたえ、春琴を力強くだきしめた。二人は幸せになった。夫は逞しく、美しく、春琴を愛し守ってくれる。春琴にも、もとのあかるく、無垢で、純真な笑顔がもどった。だが時々、フッと一人で考えてしまうような時、何かのひょうしに気のまよいがでてしまうのだった。それはあの暗い、こわい、そしてつらく恥ずかしい、死を求める感情だった。小さな幸せの国。美しいアゲハ春琴と逞しいアゲハNがエンペラーのような象徴として調和をたもっている平和な国。しかし、春琴には時々、暗い感情がおこる。それに悩まされ、時々春琴はあの暗い場所を求めにいってしまう。その後、春琴は、クモは、Nはどうなったか。それは作者も知らない。