テニスのレッスンでは、どこのテニススクールでもだいたい同じだろうが、最初にストレッチをして、球出しのボールで、試合で勝つための、いくつかのバリエーションの練習をして、それから、ラリーの練習をして、最後にダブルスの試合をする、というのがほとんどだろう。私はこれを完全に否定する。アホらしいと思っている。もちろん、日本は上下関係の社会だから会社でもどんな組織でもイエスマンにならなくては生きていけないから、口には出さない。心の中でアホと思いながら、何も考えてない熱心なだけの生徒を装っている。
球出しのボールは死んだボールなのである。100%とは言わないが、80%くらいの割合の死んだボールなのである。球出しのボールは、理想のフォームで打てる。それはなぜか。それは、球出しのボールはスピードが全然ないから、そして十分なゆとりを持って用意できるから、フルスイング出来るからである。また、ラリーと違って、相手の打ちやすい所に打たなくては、という事も考えなくていいから、ボールをコントロールしなくては、という意識も必要もないのである。
昔あったオートテニスというものは、今はほとんど無くなってしまった。ほとんどがバッティングセンターに変わってしまった。それはなぜか。といったら、オートテニスのボールは死んだボールだから、いくらオートテニスで上手く打てるようになっても、テニスがうまくならないから、やる人がいなくなってしまったからである。球出しのボールもオートテニスと同じように死んだボールなのである。だから、死んだボールをいくら上手く打てるようになっても、生きたボールを打てるようにはならないのである。
スクールの一回の練習時間は80分と短い。無意味な練習をすることは実に時間がもったいない。唯一、練習になるのは、球出しの次の、ラリーである。これは別に相手がコーチである必要はない。(もっとも相手がコーチであれば、よりいいが)これが唯一の練習となる。その次のダブルスの試合も、あまり有効な練習ではない。他の人はどう思ってるのか知らないが、試合となると、勝つことに意識が行く。正しいフォームを作ることよりも。だから、少なくとも私は、試合では、勝つことではなく、いかにボールの流れを止めないか、ということしか意識していない。勝つことではなく、相手が打ち返しやすい所に打つ。流れが止まらないことを意識する。テニスはリズムのスポーツであり、反復するリズムの中だけで、フォームが正しく変わっていくのである。本当は、ラリーの練習だけするべきなのだが、ほとんどのコーチは、それでは味気ないと思っているのか、それとも、さも、もっともらしい練習をすれば上手くなるだろう、とのほとんど無思考の人ばかりだと推測する。球出しの練習が無意味だということを感じている生徒もいるのではなかろうか。一年間も練習しても、ほとんどの人は全く上達していない。上達しないから、やめていく人も多いのではなかろうか。実際、実に多くの人がやめていく。新陳代謝が激しい。
空手家の南郷継正氏(一般の人は彼を変人と見るだろう)も、技の上達過程においてて、試合がいかに益なく有害かということを何度も、口を酸っぱくして、いやというほど繰り返し述べている。一部、氏の文を引用しよう。
「技がまだ我がものになっていない時期に、技の使い方に意識を注ぐことは自殺行為にも等しいことなのである。技を我がものにする段階では試合はなるべく避けるべきであるし、またどうしても出なければならない時は、勝つべきではないのである。無理をしてまで勝つなということであって、結果的に勝つのはやむをえないのである」
(南郷継正「武道の理論」より)
さて、バッティングセンターのボールは生きたボールか、死んだボールか、という考察もしたいが、眠いので、後日しようと思う。
球出しのボールは死んだボールなのである。100%とは言わないが、80%くらいの割合の死んだボールなのである。球出しのボールは、理想のフォームで打てる。それはなぜか。それは、球出しのボールはスピードが全然ないから、そして十分なゆとりを持って用意できるから、フルスイング出来るからである。また、ラリーと違って、相手の打ちやすい所に打たなくては、という事も考えなくていいから、ボールをコントロールしなくては、という意識も必要もないのである。
昔あったオートテニスというものは、今はほとんど無くなってしまった。ほとんどがバッティングセンターに変わってしまった。それはなぜか。といったら、オートテニスのボールは死んだボールだから、いくらオートテニスで上手く打てるようになっても、テニスがうまくならないから、やる人がいなくなってしまったからである。球出しのボールもオートテニスと同じように死んだボールなのである。だから、死んだボールをいくら上手く打てるようになっても、生きたボールを打てるようにはならないのである。
スクールの一回の練習時間は80分と短い。無意味な練習をすることは実に時間がもったいない。唯一、練習になるのは、球出しの次の、ラリーである。これは別に相手がコーチである必要はない。(もっとも相手がコーチであれば、よりいいが)これが唯一の練習となる。その次のダブルスの試合も、あまり有効な練習ではない。他の人はどう思ってるのか知らないが、試合となると、勝つことに意識が行く。正しいフォームを作ることよりも。だから、少なくとも私は、試合では、勝つことではなく、いかにボールの流れを止めないか、ということしか意識していない。勝つことではなく、相手が打ち返しやすい所に打つ。流れが止まらないことを意識する。テニスはリズムのスポーツであり、反復するリズムの中だけで、フォームが正しく変わっていくのである。本当は、ラリーの練習だけするべきなのだが、ほとんどのコーチは、それでは味気ないと思っているのか、それとも、さも、もっともらしい練習をすれば上手くなるだろう、とのほとんど無思考の人ばかりだと推測する。球出しの練習が無意味だということを感じている生徒もいるのではなかろうか。一年間も練習しても、ほとんどの人は全く上達していない。上達しないから、やめていく人も多いのではなかろうか。実際、実に多くの人がやめていく。新陳代謝が激しい。
空手家の南郷継正氏(一般の人は彼を変人と見るだろう)も、技の上達過程においてて、試合がいかに益なく有害かということを何度も、口を酸っぱくして、いやというほど繰り返し述べている。一部、氏の文を引用しよう。
「技がまだ我がものになっていない時期に、技の使い方に意識を注ぐことは自殺行為にも等しいことなのである。技を我がものにする段階では試合はなるべく避けるべきであるし、またどうしても出なければならない時は、勝つべきではないのである。無理をしてまで勝つなということであって、結果的に勝つのはやむをえないのである」
(南郷継正「武道の理論」より)
さて、バッティングセンターのボールは生きたボールか、死んだボールか、という考察もしたいが、眠いので、後日しようと思う。