小説家、反ワク医師、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、反ワク医師、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

球出しのボールは死んだボール

2011-01-14 05:35:14 | 武道・スポーツ
テニスのレッスンでは、どこのテニススクールでもだいたい同じだろうが、最初にストレッチをして、球出しのボールで、試合で勝つための、いくつかのバリエーションの練習をして、それから、ラリーの練習をして、最後にダブルスの試合をする、というのがほとんどだろう。私はこれを完全に否定する。アホらしいと思っている。もちろん、日本は上下関係の社会だから会社でもどんな組織でもイエスマンにならなくては生きていけないから、口には出さない。心の中でアホと思いながら、何も考えてない熱心なだけの生徒を装っている。

球出しのボールは死んだボールなのである。100%とは言わないが、80%くらいの割合の死んだボールなのである。球出しのボールは、理想のフォームで打てる。それはなぜか。それは、球出しのボールはスピードが全然ないから、そして十分なゆとりを持って用意できるから、フルスイング出来るからである。また、ラリーと違って、相手の打ちやすい所に打たなくては、という事も考えなくていいから、ボールをコントロールしなくては、という意識も必要もないのである。

昔あったオートテニスというものは、今はほとんど無くなってしまった。ほとんどがバッティングセンターに変わってしまった。それはなぜか。といったら、オートテニスのボールは死んだボールだから、いくらオートテニスで上手く打てるようになっても、テニスがうまくならないから、やる人がいなくなってしまったからである。球出しのボールもオートテニスと同じように死んだボールなのである。だから、死んだボールをいくら上手く打てるようになっても、生きたボールを打てるようにはならないのである。

スクールの一回の練習時間は80分と短い。無意味な練習をすることは実に時間がもったいない。唯一、練習になるのは、球出しの次の、ラリーである。これは別に相手がコーチである必要はない。(もっとも相手がコーチであれば、よりいいが)これが唯一の練習となる。その次のダブルスの試合も、あまり有効な練習ではない。他の人はどう思ってるのか知らないが、試合となると、勝つことに意識が行く。正しいフォームを作ることよりも。だから、少なくとも私は、試合では、勝つことではなく、いかにボールの流れを止めないか、ということしか意識していない。勝つことではなく、相手が打ち返しやすい所に打つ。流れが止まらないことを意識する。テニスはリズムのスポーツであり、反復するリズムの中だけで、フォームが正しく変わっていくのである。本当は、ラリーの練習だけするべきなのだが、ほとんどのコーチは、それでは味気ないと思っているのか、それとも、さも、もっともらしい練習をすれば上手くなるだろう、とのほとんど無思考の人ばかりだと推測する。球出しの練習が無意味だということを感じている生徒もいるのではなかろうか。一年間も練習しても、ほとんどの人は全く上達していない。上達しないから、やめていく人も多いのではなかろうか。実際、実に多くの人がやめていく。新陳代謝が激しい。

空手家の南郷継正氏(一般の人は彼を変人と見るだろう)も、技の上達過程においてて、試合がいかに益なく有害かということを何度も、口を酸っぱくして、いやというほど繰り返し述べている。一部、氏の文を引用しよう。
「技がまだ我がものになっていない時期に、技の使い方に意識を注ぐことは自殺行為にも等しいことなのである。技を我がものにする段階では試合はなるべく避けるべきであるし、またどうしても出なければならない時は、勝つべきではないのである。無理をしてまで勝つなということであって、結果的に勝つのはやむをえないのである」
(南郷継正「武道の理論」より)

さて、バッティングセンターのボールは生きたボールか、死んだボールか、という考察もしたいが、眠いので、後日しようと思う。

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内向性と我

2011-01-14 04:14:47 | Weblog
内向的な人間(人間の1%)は、我が強いとか、我があるとか言われているようだが、そして外向的な人間(人間の99%)は、我がないとか言われているようだが、実際は逆である。しかし、確かに内向的な人間は、絶対的な我を持っているけれど、その思索の深海があまりにも深いので、無我の境地を考えたり、求めたり、自分の考えの誤りに固執するような、つまらないプライドを持っておらず、自他の区別がなく、あくまで徹底的に真実を追究するから、結局は我がないのである。一方、外向的な人間は、社会との人間関係のつながりでは、自他の区別がなく、自分の心の窓が開いており、そのため風通しが良く、世界と一体化していてるのだが、それはあくまで物質的なことに関してであり、精神の我というものは、誰でも持っているのである。そして、その取り扱いが、あまりにも低レベルで、おそまつで、その低レベルな我に執着する人が多いのである。

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仏教と絶対者

2011-01-14 04:13:59 | Weblog
仏教とキリスト教という二大宗教を比較してみると。私にとっては仏教よりキリスト教の方が面白い。そもそも、仏教では、釈迦は、神とか絶対者ではない。真理を説く者、である。弟子も多くいて、宗派も多いが、仏教とは、基本的に宗教ではない。絶対者がいないのだから。仏教聖典を読んでみると、聖書と違って、キリストの発言のような過激なことは書いてない。穏当なことしか書いてない。仏教には絶対者がいないから、インパクトも少ない。こう考えた。欧米では、良心のバックボーンにキリスト教がある。(全ての人がではないが)決して、特攻精神は日本人だけのものではない。ただ欧米人の場合、良心のバックボーンにキリスト教があるから、それが無謀な行為に対するブレーキの役目となっているのである。ここで思うことは、もし釈迦が、自分は人間ではなく、神と名乗ってくれていたなら、世界の歴史は大きく変わったのは、間違いない。できれば釈迦に、自分は神である、と名乗って欲しかったものである。極限状態になると人間は絶対者、神を求めるものである。真理を説く人間では、インパクトが弱いのである。太平洋戦争でも、仏教は、絶対者がないから、仏教は余所に追いやられ、神道が軍部によって持ち出され、天皇が神になってしまったのである。もし、釈迦が神だったら、軍部は、天皇を神にしたてあげることが出来にくかっただろうから、太平洋戦争も大きく違っていたものになっただろう。太平洋戦争は、経済体制の過渡期とか、帝国主義とか、そういう物理的必然性だけによって、起こるべくして起こった面が強いが、精神的な視点で見てみるのも興味深い。もし釈迦が自分を神と自称していてくれていたなら、歴史は大いに変わっていたはずである。江戸時代のキリシタン弾圧にしたって、釈迦が神だったら、起こりにくかったはずである。フランシスコ・ザビエルのイエズス会も布教しにくかったはずである。

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感性の個性

2011-01-05 00:34:49 | Weblog
私は、勿論、自分よりはるかに優れた小説をたくさん読んできた。しかし、だからといって、自分の創作をやめようと思ったことは一度もない。

田原聡一朗は、はじめは作家になりたいと思っていたが、大江健三郎と石原慎太郎の小説を読んで、自分ではとても太刀打ち出来ない、と作家をあきらめたらしいが、わかる気もする。氏には、世界で代替のきかない感性の個性というものは無いように思える。氏は気性はやたら強く、行動のバイタリティーも凄いが、それは感性の個性ではない。

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テレビ

2011-01-04 23:54:36 | Weblog
今まで、テレビを見て小説のヒントを得た経験は一度もない。新聞でも雑誌でもない。ほんの一瞬の些細な事でも、体験が一番、ヒントになる。

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横光利一

2011-01-04 23:53:43 | Weblog
現在の前衛的な実験小説は、当然のことながら将来は、「前衛的」ではなくなってしまう。氏ほど小説で実験を試みた小説家はいないのではなかろうか。「機械」のような、それまでにない、一続きの文体の心理小説。

「ナポレオンと田虫」・・・書いた目的は何かといったら、実験のための小説としか思えない。

「日輪」・・・「機械」のような変則的な文体に対してオーソドックスな文体。これが小説の基本形だが、何とストーリーも語彙も美しいことか。

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井伏鱒二

2011-01-04 23:46:31 | Weblog
「黒い雨」のような長編を読んで、あまり読む気がしなかったが、井伏鱒二は、エッセイを、短編小説のように書く才能がある。

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めでたい

2011-01-04 23:28:02 | Weblog
去年の12月から書き始めた小説が原稿用紙換算200枚を超えて、一区切りついたが、もっと続けようと思うのでアップしない。

今日、何気なく書いた小説が、だんだん筆がのって結構ものになる予測がついて、こいつは春から縁起がいい。

今年は風邪をたぶんひかないだろう。今年の寒さに体が慣れた。

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謹賀新年

2011-01-01 00:07:26 | Weblog
謹賀新年。あけましておめでとうございます。今年が皆様にとって良いお年でありますように。

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