かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 2の141

2019-03-01 18:31:43 | 短歌の鑑賞
  ブログ用渡辺松男研究2の19(2019年2月実施)
     Ⅲ〈錬金術師〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P96~
     参加者:泉真帆、M・I、岡東和子、A・K、T・S、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放


141 穴のなかへ月光いとどふかくさし父は通りてゆく穴の上

     (レポート)
 この一首の味わいは「穴のなかへ月光いとどふかくさし」という上の句をどう解釈するかということだろう。一首の雰囲気から土に掘られた穴とは考えにくく、作者自身を穴としているのだろう。太陽光とは違って静かな神秘的な月光が作者の精神の深いところにさしていて、そこを父は通り過ぎてゆく。「通りてゆく穴の上」という表現も作者の精神性、哲学志向などに関心を持たない父であろうが、穴をまたぐとはせず品のある表現である。(慧子)


      (当日意見)
★私は穴を作者自身とは思わなくて、景だと思いました。自然に出来た穴、例えば木の洞のような
 ものだとか、動物が掘った穴だとか。抽象の穴だと何か薄いような気がする。(真帆)
★作者自身が穴だというのはなかなか面白い解釈だと思いますが、私はどういう経緯でできた穴か
 分からないけど黒々とした土の穴のように思います。月光のさす夜だから土の色は見えないんだ
 けど。ただ、その穴の上を通るってどういう感じなんだろう。真帆さんの木の洞だと縦向きだか
 ら人が通りにくいけど。父は10センチくらい浮いているのかなあ。別に、リアルの歌じゃなく
 てもいいんだから。(鹿取)
★「穴のなかへ月光いとどふかくさし」ってとても写実的なうたいかたをしていますよね。そして
 その上を父が通って行くということは作者が見ているってことになりますよね。そうすると作者
 は何が言いたいのかわからないのです。「穴のなかへ月光いとどふかくさし」は時間とか空間の
 象徴ですよね。(A・K)
★A・Kさんの意見を伺っていてああそうだなと思ったのですが、お父さんは息子が見ているのに
 無視して通り過ぎて行っちゃったのですね。通り過ぎていくというのは、息子のことを分からな
 いなりに認めているということじゃないですか。(慧子)
★穴の中に自分が入っているということはないのですか?穴の中に自分がいて、そこに月光がさし
 ている。そしてお父さんがその上を通って行く。(真帆)
★慧子さんの意見、息子の〈われ〉が見ているとして、それをお父さんが気づいているとは限らな
 いですね。この作者、いろん なものを見ているので、神の視点みたいなものかもしれないです
 ね。父祖が槍を持ってすぎるのを見ている歌もあったし。泉さんの説だとずいぶん大きな穴だけ
 ど、それも考えられるかな。でも、この歌は「穴のなかへ月光いとどふかくさし」って情景だけ
 で魅力的ですよね。静謐な世界で、私には黒い土のかぐわしい匂いがするように思えます。お父
 さんとの関係については、理解するとか相手を認めるとかそういう情愛の問題を言っているので
 はない気がします。もう少し存在に関わる哲学的な歌のように思いますが。(鹿取)
★上の句は宇宙の断片のようなものですね。そこを父が通ってゆく。父である必然性はないかもし
 れないけど、でも父なんですね。(A・K)
★そうですね、家族としての父をうたっている歌もありますが、もう少し象徴的な父の歌もありま
 す。お母さんもそうで、実際の母らしい歌もあるけど女偏に「比」と書いた妣(はは)の歌もす
 ごくたくさんあります。この歌は象徴的な父のように思えます。(鹿取)
★そうですね、そう思います。(A・K)
★土に掘られた穴で、それほど大きくないので、跨ぐとは言ってないけどぽんと通って行く。下の
 句の表現に哲学的なものを感じました。(岡東)
★そうですね、小さな穴で飛び越えられるのかもしれないですね。また、そんなにリアルに考えな
 くても、穴は存在するけど、その上を平気で歩いて行くのかもしれない。(鹿取)
★この回の最後の歌に大根を抜くというのがあって、もしかしたらその穴かなあと。(真帆)

     
     (後日意見)
 当日の鹿取発言「父祖が槍を持ってすぎるのを見ている歌もあったし」の歌は『泡宇宙の蛙』のⅣ「白骨観」にある次の歌。(鹿取)

日陰よりわが見ておれば恍惚と日向を父祖が槍もちて過ぐ

コメント
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