かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 2の209

2019-10-31 18:22:13 | 短歌の鑑賞
   ブログ用渡辺松男研究2の28(2019年10月実施)
     Ⅳ〈水〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P138~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、鹿取未放
     レポーター:岡東和子    司会と記録:鹿取未放

209 雲をたべ水っぽきわがこころなり歩道橋のぼり歩道橋おりる

     (レポート)
 雲を食べて、作者のこころは水つぽくなつた。その心で歩道橋をのぼり、歩道橋をおりたという。雲は空気中の水分が凝結したものだが、それを食べて「こころ」が水つぽくなつたという表現が面白い。比喩を効かせた上句に対して、現実的な下句の表現が巧みな一首である。(岡東)


     (紙上参加意見)
 雲をたべて水っぽくなる心、体ではなく心。とりあえず、心に鬱積していたものが薄まったということか。そんな心のまま歩道橋を上る。それは地面から、俗界から少し浮き上がって、少し心を開放される感じなのか。そして、また降りてくる。この動きのある下句が日常にいながら日常から別のところへ連れて行ってくれるような不思議な感覚がある。(菅原)


          (当日発言)
★感覚的には分かる気がする。歩道橋を登ったり降りたりするのも何かぼあーんとした雲
 が上り下りしているようで、くぐもった感じも伝わってくる。(真帆)
★水っぽいというのはいい意味か悪い意味か。あまりいい意味ではないような気がする。
 苦しみが薄らいだというのなら分かるけど、水っぽい心って何か違うような気がする。
 「歩道橋のぼり歩道橋おりる」ってものすごくリアルな動きを持ってきているけど、作
 者がそうしたようでもあり全然違うようでもある。(A・K)
★松男さん、パンになったりいろいろなものになるけど水を素材にして採り上げたのは初
 めてと思います。また、雲を食べると言われるとちょっと…味わったり飲み下したりす
 る訳だから。(真帆)
★下の句と上の句には関連があるのですか?雲を食べた後、水っぽい心なりって断定して
 ます。ここで切れます。そして歩道橋を登ったり降りたりするんですよ。坂ではなく歩
 道橋でないといけないのか。段々、階段が想像されますよね。(A・K)
★前回は蟬を食べましたよね。これは無理すれば食べられないことはない。でも、雲はま
 あ理屈で言えば食べられませんよね、そんなこというと「あなたはリアリズムのめがね
 を掛けているだけ」って松男さんに笑われますけど。歩道橋のところはエッシャーのだ
 まし絵を連想しました。あの中の人物は階段を登っているようで実は降りていて、降り
 ているようで実は登っていて不思議な絵ですよね。リアルな行動のようで何か朦朧とし
 た夢の中で登ったり降りたりしているような感じ。(鹿取)
★倒置法ではないですか?歩道橋のぼり歩道橋おりる、と上の句が倒置になっている。つ
 まり、なぜ上の句のような気持をもったのかというと、それは、歩道橋にのぼって少し
 空に近づき、空へ手をのべ雲をとって食べたから。実際には心で雲を食べ、水っぽい心
 になった、そのあと歩道橋をおりた、というように思いましたがどうでしょう。(真帆)
★いや、それは倒置法ではないですね。例えば「銀杏散るなり夕日の丘に」のようなのが
 倒置法です。菅原さんは「日常から別のところへ連れて行ってくれるような不思議な感
 覚」と書いていて、この歩道橋を超自然のものという捉え方ですね。この説をとると雲
 を食べるイメージと結びつきやすいですね。(鹿取)
★倒置法だったら、それを受ける語が必要ですから倒置法ではないですね。(A・K)


         (後日意見)
 「吹けばかまきりの子は飛びちり あなたはりありずむのめがねをかけているだけ」という歌が渡辺松男の第五歌集『〈空き部屋〉』にある。上記、鹿取発言はそれを踏まえる。(鹿取)


コメント
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