かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 2の210

2019-11-01 20:35:36 | 短歌の鑑賞
   ブログ用渡辺松男研究2の28(2019年10月実施)
     Ⅳ〈水〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P138~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、鹿取未放
     レポーター:岡東和子    司会と記録:鹿取未放

210 ぽちゃぽちゃとわたしは歩く水ぶくろ歩きつかれて月下水のむ

      (レポート)
 作者は歩いている。歩き疲れて夜になり、月が出ているその下で、水をのむという。人間は身体の半分以上が水だから、「歩く水ぶくろ」である。ぽちやぽちやという擬音語が「水ぶくろ」につながつて、ユ―モアさえ感じさせられる。水に苦しむ作者が「水のむ」というのは、ブラツクユ―モアだろう。(岡東)


      (紙上参加意見)
 人体はほぼ水でできていて確かに水袋という表現がぴったりだ、ぽちゃぽちゃという音はかわいい。水袋だけどなんだか愛しい感じ。その水袋が歩き、疲れて、水をのんだ。水袋が水を補給するのはなんだか滑稽でもある。けれど「月下水のむ」という美しい表現に作者の存在への肯定感が感じられる。いい歌。(菅原)


          (当日発言)
★表記ですが、「囊」という字で「ふくろ」と読ませるのが合っているような気がする。
 この歌は「ふくろ」とひらかなですが「囊」という字を意識しているんじゃないかなあ。
 前の2首に比べてわかりやすい。おとぎ話っぽいけど分かる気がする。(A・K)
★自分は水のふくろで歩くにもたっぷんたっぷんと苦しい。かったるいような感じだけど、
 でも歩く。そして歩き疲れて月の煌々と照る(とは書いてないけど)下で水を飲む。月
 下だから、この部分は苦しいイメージではない気がする。(鹿取)
★菅原さんが書いている「「月下水のむ」という美しい表現に作者の存在への肯定感が感 
 じられる。」は違うんじゃないかなあ。そこまでは言ってないんじゃないですか。もっ 
 と切ないというか、そうせざるをえない、存在としての切なさ。(A・K)
★もっと肉体的な感じですか?(鹿取)
★そう、そう。(A・K)
★水吐くではなく水飲むだから。ぽちゃぽちゃというオノマトペがものすごくリアルで実
 感として伝わってきて。喉は渇いていないのに歩き疲れて水を飲むのは生きる哀しさの
 よう。菅原さんは上の句の方に重点を置いて、それでも水を飲むことに生きることを受
 け入れたというような肯定感かなあと思います。でも、あまり積極的な肯定感ではない
 ような。(真帆)
★理屈とか哲学とかではなしに、肉体として水を飲む。プラスもマイナスもなくて、善悪
 でもなくて、精神ではなくて、人間の肉体をもっている私は水を飲みますという。そこ
 で「月下」というのが効いている。木の元とか川のほとりでは駄目で。(A・K)
★「月下水のむ」って漢詩みたいで調べが張ってますよね。上の句はへにゃへにゃして 
 るけど。(鹿取)

コメント
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