かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 2の223

2019-11-24 19:20:35 | 短歌の鑑賞
   ブログ版渡辺松男研究2の29(2019年11月実施)
     Ⅳ〈悪寒〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P145~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆    司会と記録:鹿取未放



223 孤独ではない・・・しかし雨の日は落ち葉のようにぺったりといる

(レポート)
 「孤独ではない」といいつつ「落ち葉のようにぺったりといる」と負の感情を漂わせ、したがってとても深い孤独にいることが伝わってくる。雨滴のついた葉が「ぺったり」の語で、疎ましい感情につながり、取り除きたいのにくっついて離れない孤独を表現している。(泉)


(紙上参加)
 雨の日の気分を、孤独ではないけれど落ち葉がぺったりと地に張り付くようにしていたいというのはわかるような、わからないような、でもそんな日もあるかな。(菅原)


(当日意見)
★「ぺったりといる」のは〈われ〉ですよね。ひところ、定年後の夫が妻にべったり張り付いて
 いるのを濡れ落ち葉って揶揄したりしていましたが、これは誰かにではなく「ぺったりといる」
 は対象はなくて、一人で完結している動作ですよね。泉さん、「取り除きたいのにくっついて離
 れない孤独を表現している」は、「ぺったりといる」のは〈われ〉ではなく、孤独が〈われ〉に
 張り付いているということですね。(鹿取)
★そういうことです。(泉)
★短歌に孤独って言葉はよほど覚悟しないと使えないですね。抽象的な観念ですから。「孤独では
 ない」って大見得きっても面白くない。下の句の「雨の日は落ち葉のようにぺったりといる」 
の喩も効いてないですね。当たり前ですから。脱力します。(A・K)
★さっきの私の発言は間違っていたようです。「ぺったりといる」のは〈われ〉ですね。孤独では
 ないがその存在が消えてしまうことはないという二重否定。だから孤独なんだ。(泉)
★私は二重否定とも思わないけど、孤独ではないけど雨の日は憂鬱で落ち葉みたいにぺったりと
 存在しているよって。(鹿取)
★そうすると、ああそうですかって止まってしまう歌ですね。(A・K)
★「孤独ではない」というのが少し思わせぶりかなと思います。(岡東)
★孤独だからこそ孤独ではないと言い張っているのでしょう。(泉)
★221番の「冷蔵庫にそっと地球儀冷やすとき家族から遠く来てしまいたり」をA・Kさんは
 絶対的な孤独とおっしゃいましたが、確かにあの身震いするような恐ろしい孤独感からすれば、
 この歌は甘いかもしれないですね。(鹿取)

コメント
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