ブログ版渡辺松男研究 ⑧(13年9月)
【からーん】『寒気氾濫』(1997年)30頁~
参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、高村典子、渡部慧子、
司会と記録:鹿取 未放
68 白き兵さえぎるもののなき視野のひかりの向こうがわへ行くなり
★次の歌「敗走の途中のわれは濡れてゆくヤンバルクイナの脚をおもいぬ」との関係で、
おそらくこの連作は沖縄へ行った時のことを詠っているようだ。そうするとこの歌の
背景が分かる。白き兵というと私などは傷痍軍人の姿を思い浮かべてしまう。敗残兵
という感じなのでしょうか。あるいは白兵というのも考えられるが、おそらく白兵的
なものではなくて、やっぱり後の歌につながるような敗走の兵なのではないかと思う
けど。ひかりと絡み合わせているのも、沖縄の風景と併せてでてきているんだろうな
と思います。(鈴木)
★「ひかりの向こうがわ」というのは、どんなふうに捉えられますか?渡辺さん、向こ
う側というのをよく使うんだけど。この歌では浜辺だか背の低い草原の中だかを、ず
ーと白い兵が歩いていって、そのうち地平線の向こうに隠れて視野から見えなくなる、
そんな状態を詠っているのでしょうか。もうちょっと哲学的な光の向こう側なんでし
ょうか。(鹿取)
★私は哲学的な光の向こう側だと思います。(高村)
★そのことを分かりやすく説明すると、どういうことなんでしょうか。(鹿取)
★光の向こう側なんてなかなか思いつかないと思うんですね。光の当たっているところ
は分かるけど、その向こうはなかなか想像できない。(高村)
★すると計測できるような普通の距離ではないんですね。(鹿取)
★渡辺さんの歌い方には、こういうのよくありますよね。少し先の頁にある〈空間へ踏
みいりて出られなくなりし一世(ひとよ)にてあらん紙を切る音〉などもそうです。
空間を一つの箱みたいに考えていて、そんなかに閉じこめられて出られなくなってい
て、紙を切る音がしますよと言っているのと、光の向こう側へ行くというのと、同じ
ような感じ。(鈴木)
★前にもありましたよね、葱の匂いと共に空間が閉じられるというような意味の歌。
(鹿取)
★敗残兵と自分との距離というか、距離は適切ではないかもしれないけど……(崎尾)
★うーん、やっぱり見えないんだろうなあ。光の中だったら見えるけど確かに向こう側
へ行っちゃうと見えないんだけど。(鈴木)
(追記)
「川向こうへ銀杏しきりに散りぬれどむこうがわとはいかなる時間」(かりん、1993年2月号・歌集未収録)など「向こうがわ」を扱った歌は初期の頃から幾首かある。この歌は志向の分かりやすい歌なのであげてみた。
次に引用するのは大井学さんのインタビューに答えたもので、『泡宇宙の蛙』の編集で考慮したことを述べている部分。第二歌集についてだが、渡辺さんの歌について、「向こう側」について大いに参考になる。(73番歌「ネクロポリスは月のかたちの石に満ち人寿三万歳のわれは行く」なども、次に言う自己同一的実体的作歌主体の枠をはみ出した歌なのだろう。)
『寒気氾濫』は無意識に設定している、ある枠のなかに大方納まっていると思いま
した(その枠のおかげで受け入れてもらえたのだと思いますが)。『泡宇宙の蛙』はそ
の枠をやぶろうとしたのだと思います。その枠のなかに、前提としている作歌主体そ
のものの自己同一性がありました。在ることの不思議、無いことの不思議、生命のこ
と、そういう次元を詠まなかったなら、私(に)とって歌は意味のないものになって
いました。存在に寄り添うこと、それを掬うこと、それを包むこと、あるいは包まれ
ること、それに成りきること、これらのことはいつもこちら側にいる自己同一的実体
的作歌主体にとどまっているかぎり不可能なことでした。
(「かりん」2010年11月号)
【からーん】『寒気氾濫』(1997年)30頁~
参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、高村典子、渡部慧子、
司会と記録:鹿取 未放
68 白き兵さえぎるもののなき視野のひかりの向こうがわへ行くなり
★次の歌「敗走の途中のわれは濡れてゆくヤンバルクイナの脚をおもいぬ」との関係で、
おそらくこの連作は沖縄へ行った時のことを詠っているようだ。そうするとこの歌の
背景が分かる。白き兵というと私などは傷痍軍人の姿を思い浮かべてしまう。敗残兵
という感じなのでしょうか。あるいは白兵というのも考えられるが、おそらく白兵的
なものではなくて、やっぱり後の歌につながるような敗走の兵なのではないかと思う
けど。ひかりと絡み合わせているのも、沖縄の風景と併せてでてきているんだろうな
と思います。(鈴木)
★「ひかりの向こうがわ」というのは、どんなふうに捉えられますか?渡辺さん、向こ
う側というのをよく使うんだけど。この歌では浜辺だか背の低い草原の中だかを、ず
ーと白い兵が歩いていって、そのうち地平線の向こうに隠れて視野から見えなくなる、
そんな状態を詠っているのでしょうか。もうちょっと哲学的な光の向こう側なんでし
ょうか。(鹿取)
★私は哲学的な光の向こう側だと思います。(高村)
★そのことを分かりやすく説明すると、どういうことなんでしょうか。(鹿取)
★光の向こう側なんてなかなか思いつかないと思うんですね。光の当たっているところ
は分かるけど、その向こうはなかなか想像できない。(高村)
★すると計測できるような普通の距離ではないんですね。(鹿取)
★渡辺さんの歌い方には、こういうのよくありますよね。少し先の頁にある〈空間へ踏
みいりて出られなくなりし一世(ひとよ)にてあらん紙を切る音〉などもそうです。
空間を一つの箱みたいに考えていて、そんなかに閉じこめられて出られなくなってい
て、紙を切る音がしますよと言っているのと、光の向こう側へ行くというのと、同じ
ような感じ。(鈴木)
★前にもありましたよね、葱の匂いと共に空間が閉じられるというような意味の歌。
(鹿取)
★敗残兵と自分との距離というか、距離は適切ではないかもしれないけど……(崎尾)
★うーん、やっぱり見えないんだろうなあ。光の中だったら見えるけど確かに向こう側
へ行っちゃうと見えないんだけど。(鈴木)
(追記)
「川向こうへ銀杏しきりに散りぬれどむこうがわとはいかなる時間」(かりん、1993年2月号・歌集未収録)など「向こうがわ」を扱った歌は初期の頃から幾首かある。この歌は志向の分かりやすい歌なのであげてみた。
次に引用するのは大井学さんのインタビューに答えたもので、『泡宇宙の蛙』の編集で考慮したことを述べている部分。第二歌集についてだが、渡辺さんの歌について、「向こう側」について大いに参考になる。(73番歌「ネクロポリスは月のかたちの石に満ち人寿三万歳のわれは行く」なども、次に言う自己同一的実体的作歌主体の枠をはみ出した歌なのだろう。)
『寒気氾濫』は無意識に設定している、ある枠のなかに大方納まっていると思いま
した(その枠のおかげで受け入れてもらえたのだと思いますが)。『泡宇宙の蛙』はそ
の枠をやぶろうとしたのだと思います。その枠のなかに、前提としている作歌主体そ
のものの自己同一性がありました。在ることの不思議、無いことの不思議、生命のこ
と、そういう次元を詠まなかったなら、私(に)とって歌は意味のないものになって
いました。存在に寄り添うこと、それを掬うこと、それを包むこと、あるいは包まれ
ること、それに成りきること、これらのことはいつもこちら側にいる自己同一的実体
的作歌主体にとどまっているかぎり不可能なことでした。
(「かりん」2010年11月号)
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