2025年度版 馬場あき子の外国詠49(2012年2月実施)
【ロイス川の辺りで】『太鼓の空間』(2008年刊)176頁
参加者:N・I、井上久美子、崎尾廣子、曽我亮子、
藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:N・I 司会とまとめ:鹿取 未放
351 十九世紀の陶芸の花に灯を当てて騙されてゐるゆたかな時間
(当日意見)
★ホテルなどでランプや人形などを見ているのだろう。(藤本)
★日本人ならまず花といえば生花。露を帯びた花のイメージが強いのに陶器でできた花を見て騙されている気分になった。文化的な差。(慧子)
★「花」にこだわらなくてもよいのではないか。(藤本)
★「陶芸の花」は陶で作った花、または陶の壺や皿などに描かれた花の絵か、あるいは象徴的に陶芸のすばらしい作品と言うことかもしれないが「華」ではないのでこの解釈は苦しいかもしれない。次の歌に「そこにゆく秘密のおそれアンティクの壺に魂を吸はるるやうな」の歌があるので花が描かれた壺かもしれない。博物館でもホテルや物産館などでもよいと思うが、十九世紀に作られたものだという陶芸の花に照明が当てられて、とてもすばらしく見える。贋作も混じっているかもしれないが、それを眺めている豊かな時間がここにある。「土産物の店」ととると、「ゆたかな時間」が短くなる気がする。ただ、歌の流れからいうと対岸、アンチックの店と出てくるので、店という解釈も棄てがたい。(鹿取)
(後日意見)
350番歌に「ロイス川の向かうに行つてアンティクのマリア一体買はんと思ふ」とあるので、「陶芸の花」を象徴と取って眺めているのはマリア一体でもよいように思う。または、次の352番歌に「そこにゆく秘密のおそれアンティクの壺に魂を吸はるるやうな」とあるので、買ったのはマリア一体ではなく「アンティクの壺」だったのかもしれない。お店やホテル、博物館だと灯が当たっているだろうが、自室で買ってきた「陶芸の花」に自分で灯を当ててうっとりと眺めていると考えても面白い。十九世紀のすばらしいものだとお店では言われたけれど、たとえ贋作でもいいやと。(鹿取)
352 そこにゆく秘密のおそれアンティクの壺に魂を吸はるるやうな
(当日意見)
★古いものには歴史の重みがあって、それに魂が奪われてしまいそうだと言っている。 (曽我)
★「やうな」という危うい収め方が、アンティックのすばらしい壺に否応なく魂が吸い寄せられていく恍惚感をうまく表現している。(鹿取)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます