かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 1の41

2020-06-27 18:36:31 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究 5(13年5月) 『寒気氾濫』(1997年)橋として
          参加者:崎尾廣子、鈴木良明、渡部慧子、鹿取未放
まとめ  鹿取 未放


41 橋として身をなげだしているものへ秋分の日の雲の影過ぐ

★「かりん」の特集号で『寒気氾濫』の自選5首にこの歌は入っていた。渡辺さ
 んがコメントもしていましたが、はっきり覚えていません。私自身はこれはニー
 チェだと思った。「ツァラツストラ」で人間は超人になる途上にあって橋のよう
 な存在だというようなことを言っている《後に記述》。そういう精神的な高みに
 登る通過点のような存在。でも、この歌は何重にも読める。弧の空間を支える緊
 張感とか精神の危うい状態とか。また、「橋として身をなげだしているもの」を
 性愛の場面の女体と捉えると下の句もとてもリアルに読めて、そういう解釈だ
 ってありと思う、解釈は読者の自由だから。(鹿取)
★世界との架け橋、関わりということで考えてもいいのかなあ。何かと何かを結
  びつける。(鈴木)
★渡辺さんはよく橋を歌っていますよね。地獄への力と天国への力とが釣り合う
  橋を渡るとか。(鹿取)

    
 ※地獄へのちから天国へのちから釣りあう橋を牛とあゆめり『寒気氾濫』

 【『こうツァラツストラは語った』】第一部 ツァラツストラの序言 4より
 「人間は、動物と超人との間に張りわたされた綱である。深淵の上にわたされた綱である。渡っていくのも危険、途中にあるのも危険、身ぶるいして立ち どまるのも危険。
 人間が偉大なのは、人間が橋であって、目的でない点にある。人間が愛されう るのは、人間が一つの過渡であり、没落である点にある。(後略)
  高橋健二・秋山英夫訳、引用文中の傍点は、翻訳者


 【自歌自注】「かりん」二〇一〇年十一月号
 「橋として身をなげだしているもの」には『ツァラツストラ』が頭にありました。「秋分の日」という言葉で時間的均衡を考えました。「秋分の日」がふさわしいと思いました。佐太郎の歌「秋分の日の電車にて床(ゆか)にさす光もともに運ばれて行く」も頭にありました。「雲の影過ぐ」で具体性・具象性を持たせました。


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