かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 56 中欧 403

2022-07-15 12:14:58 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の外国詠56(2012年9月)
     【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P116~
       参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:N・I(欠席、レポートのみ)
      司会と記録:鹿取 未放


403 ビート聖堂にミュシャの光と影ありて聖者さびしげに瞑目したり

     (当日発言)
★前回の402番歌(ステンドグラスの絵図に悲しみの祈りあれどミュシャの光をわれは見
 てゐる)ではミュシャの光を、この歌ではミュシャの光と影を見ている。聖者は前回曽我
 さんが調べてくれたキリルとメトディウスで、チェコにキリスト教を伝えた二人。彼らが
 寂しそうに目をつぶっているという意味。(藤本)
★前回のまとめにステンドグラスの一部を拡大した図を入れた。拡大するとミュシャの特色
 がよく見て取れる。ステンドグラスが大きすぎて聖者が瞑目している部分はよく分からな
 いが、現地では見えたのだろう。(鹿取)
★この歌はビート聖堂とミュシャに頼っている。「さびしげに」も私たちが使ったらアウト
 ではないか。(慧子)
★でもビート聖堂とミュシャのステンドグラスは目の前にある事実だから頼っているとはい
 えない。「さびしげに」が活きているかどうかの判断は鑑賞者によるかもしれないが、私
 は活きていると思う。また「さびしげに」は作者の感情を直接表現したものではない。ス
 テンドグラスそのものも陽光を受けて美しく輝いているだろうが、絵そのものに光と影が
 あって、影の部分の一つに目を瞑った聖者がいる。光と影はもちろん精神のそれでもある
 のだろう。(鹿取)
★キリスト教そのものが変遷している。時には迫害されたりもする。そういう哀しさを秘め
 て聖者は瞑目しているのかもしれない。(藤本)


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