かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

清見糺の短歌鑑賞  128

2021-07-10 16:40:21 | 短歌の鑑賞
   清見糺鑑賞20           鎌倉なぎさの会  鹿取未放

128 うらうらに照れる春日に布巾干すかたく絞ってぴんとひろげて
       「かりん」98年6月号

 この歌も、幸福感か倦怠感かで意見が分かれた一首。本歌取りの定義は、本歌 の情趣とは違うものにすることだから、そのルールに従えば幸福感の方が当たっ ているかも知れないが、別の考え方もあろう。
 上句は「万葉集」巻二九・四二九二大伴家持の「うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば」を下敷きにしている。家持の歌は、時代の変遷や没落しつつある氏の長としての苦悩を背景に、心浮き立つはずのうららかな春の陽光を浴びながらも「心悲し」と言い、「ひとり」といったところに、個の意識の近代性がいわれ、時代を画する新鮮さがあった。
 一方、清見のこの歌は、下句、情を述べずにごく身近な日常の生活の具体をたんたんと描写している。作者はしかし、うらうらの春日に布巾を干すというささやかな生活の一齣に充足しているわけではない。それはこの一首が家持の本歌取りであ
る以上そう読むように作られている。かたく絞ってぴんとひろげて布巾を干す細やかな行為のこころの模様は意外と暗いのである。むしろ卑近な行為の具体を描くこ
とで、家持がいわんとした心の悲しみに劣らない悲しみの切実さが滲んでいるといえるかもしれない。一見、手の内で作っているように見えながら悲しみの実感を読者に手渡すことに成功しているのは、なにげない描写のうまさによるものであろう。「かたく絞ってぴんとひろげて」の「て」の耳障りな重なりも、カ行音のやわらかさとひらがな表記でやわらげるなど細心の注意が払われている。また、フェミニズムには反するかもしれないが、20世紀終わりの日本において、作者が男性で、かいがいしく家事をこなしている行為の主体が男性であるということも、この歌にある種の苦さと悲しみを付け加える効果を果たしていよう。
 20世紀末、氏(うじ)の没落のみならず、人類さえもいつ滅びるかわからない暗い様相をていしている。人類が滅べば、短歌を含む文学はもとより、地球上の全ての文化の痕跡が意味をなさなくなる。にもかかわらず、世界各国で核の競争は後をたたず、経済は破綻寸前、建て直しを計るべき政治家や財界人は汚職と癒着と女をおとしめる性に明け暮れている。人類を導く偉大な宗教者も出ない。地球の住環境は日増しに破壊されつづけている。そういう時代の危機を肌で感じる若者達は、内面深くうつろな心を抱えこみ、そのくせ表面はやたらに明るい。
 こういう時代に余生を送る作者が、憤りをもたずに生きるなどということはそもそも不可能である。もしそういう暢気者がいたら、それこそ詩人の魂をもたないものであろう。もちろん、世界情勢や政治のみに反応して怒りや悲しみがあるのではない。詩人たる者、凡夫たる者、日常の人間関係のささいなことがらにも傷つきやすいのである。

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