2024年度版 渡辺松男研究40(2016年7月)
『寒気氾濫』(1997年)
【明快なる樹々】P136~
参加者:泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取 未放
328 沈黙がぬくみと感じられるまで一対一の欅と私
(レポート)
初めて会う人や動物に対して、私達はなにがしかの警戒心を持つだろう。しかし交流を重ねるうち、しだいに情が通い合うようになり、信頼関係が結ばれると当初の固さは解け、互いに心の温もりを感じられるようになるだろう。人と人であっても難しい関係性を、作者は欅の一樹と結んでいる。樹を愛でるのでも、頼るのでも、観察するのでもなく、「存在」対「存在」として向かい合う素直さ、厳しさ、また真裸の挑戦を、私もして行きたいと思う。(真帆)
(当日意見)
★関連があるので、先月やった325番歌(一本のけやきを根から梢まであおぎて足る
日あおぎもせぬ日)の「後日意見」のところを見てください。渡辺松男さんの エッセ
ー「樹木と『私』との距離をどう詠うか」を抜粋して載せてあります。欅の歌とかこ
れから出てくるので参考になるかなと思います。(鹿取)
★黙ってても暖かい空気が漂っている関係って人間にも在りますよね。真帆さんの
「存在」対「存在」として向かい合う、というところにとても共感しました。好き
な歌です。(鹿取)
(参考意見)(先月に引き続き再掲)
「樹木と『私』との関係をどう詠うか」(「短歌朝日」2000年3、4月号)という渡辺松男の文章がある。どの部分も重要だし、一部分を引用すると文意が通じない恐れもあるが、著作権の問題もあるので、一部を引用する。作者が樹をどう見ているか、少しは参考になるかもしれない。引用後半は、渡辺松男の歌とわれわれの鑑賞との関係にも当てはまるような気がする。(鹿取)
……実際に歌を作るときは木と一体化したいと思うだろう。外側にいるだけでは満足で
きないだろう。木の実態を踏まえつつ、自ら詠おうとする木のなかへ入っていこうとす
るだろう。木の対象性を超越しようとするだろう。主客分離において成立する認識は越
えられなければならないだろう。木という生と死の一体となった感情のような呼びかけ
を待ち、木が語りかけるのを待つ。その声は結局自分の声かもしれないが、同時に木の
声でもあるだろう。木に呼ばれているときに私は私を実感するはずだ。木のなかで私を
現象させてみたいと思うし、私のなかで木を現象させてみたいとも思う。……
( 引用文3行目の「越えられ」は、ママ )
……私と木との関係はダイナミックで、私の思いのなかに閉じ込めようとしてもはみ
出してしまう部分、そこに木の本領があるのだし、そこに私は引かれる。木の器は相
当に大きいので私の人間的解釈を充分に許容するだろうが、木はそこからあっという
間にはみ出してしまう。つまりこれこそが木というものだというものはない。
『寒気氾濫』(1997年)
【明快なる樹々】P136~
参加者:泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取 未放
328 沈黙がぬくみと感じられるまで一対一の欅と私
(レポート)
初めて会う人や動物に対して、私達はなにがしかの警戒心を持つだろう。しかし交流を重ねるうち、しだいに情が通い合うようになり、信頼関係が結ばれると当初の固さは解け、互いに心の温もりを感じられるようになるだろう。人と人であっても難しい関係性を、作者は欅の一樹と結んでいる。樹を愛でるのでも、頼るのでも、観察するのでもなく、「存在」対「存在」として向かい合う素直さ、厳しさ、また真裸の挑戦を、私もして行きたいと思う。(真帆)
(当日意見)
★関連があるので、先月やった325番歌(一本のけやきを根から梢まであおぎて足る
日あおぎもせぬ日)の「後日意見」のところを見てください。渡辺松男さんの エッセ
ー「樹木と『私』との距離をどう詠うか」を抜粋して載せてあります。欅の歌とかこ
れから出てくるので参考になるかなと思います。(鹿取)
★黙ってても暖かい空気が漂っている関係って人間にも在りますよね。真帆さんの
「存在」対「存在」として向かい合う、というところにとても共感しました。好き
な歌です。(鹿取)
(参考意見)(先月に引き続き再掲)
「樹木と『私』との関係をどう詠うか」(「短歌朝日」2000年3、4月号)という渡辺松男の文章がある。どの部分も重要だし、一部分を引用すると文意が通じない恐れもあるが、著作権の問題もあるので、一部を引用する。作者が樹をどう見ているか、少しは参考になるかもしれない。引用後半は、渡辺松男の歌とわれわれの鑑賞との関係にも当てはまるような気がする。(鹿取)
……実際に歌を作るときは木と一体化したいと思うだろう。外側にいるだけでは満足で
きないだろう。木の実態を踏まえつつ、自ら詠おうとする木のなかへ入っていこうとす
るだろう。木の対象性を超越しようとするだろう。主客分離において成立する認識は越
えられなければならないだろう。木という生と死の一体となった感情のような呼びかけ
を待ち、木が語りかけるのを待つ。その声は結局自分の声かもしれないが、同時に木の
声でもあるだろう。木に呼ばれているときに私は私を実感するはずだ。木のなかで私を
現象させてみたいと思うし、私のなかで木を現象させてみたいとも思う。……
( 引用文3行目の「越えられ」は、ママ )
……私と木との関係はダイナミックで、私の思いのなかに閉じ込めようとしてもはみ
出してしまう部分、そこに木の本領があるのだし、そこに私は引かれる。木の器は相
当に大きいので私の人間的解釈を充分に許容するだろうが、木はそこからあっという
間にはみ出してしまう。つまりこれこそが木というものだというものはない。
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