かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 259(韓国)

2019-10-26 18:06:20 | 短歌の鑑賞
<fnt color="black">  ブログ版馬場あき子の外国詠34(2010年12月実施)
       【白馬江】『南島』(1991年刊)74頁~
      参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
           T・H、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放
                

日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
   ここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教
       へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。

259 斉明軍百済とともに滅びたる白村江(はくすきのえ)の静かなる秋

      (レポート)
 掲出歌の意味はよく分かるので、事項を明らかにし、鑑賞にかえたい。( 慧子)
 斉明天皇:第37代天皇。(559~661没)(594~661在位)皇極天皇の重祚、舒明
      天皇の皇后。天智天皇の母。
 百済:朝鮮の三国時代、半島西南部にあった国。4世紀初の馬韓から起こるが、伝説ではその前
    身伯済国の始祖温祚(おんそ)王は、高句麗から移った扶余の系統と伝える。首都は漢山、
    のち熊津。任那の滅亡後、新羅、高句麗と抗争。日本、中国南朝とは友好関係を保ち、わ
    が国には仏教その他の大陸文化を伝える。660年、新羅・唐連合軍に滅ぼされた。
 白村江:村の意を古代朝鮮語で「スキリ」と言い、それが日本書紀に生きていて「白村の江」
     (はくすきのえ)という。地図は省略。
 白村江の戦:天智天皇2年(663)白村江で行われた日本・百済と唐・新羅の水軍同士の
       会戦。唐・新羅連合軍に侵略された百済の救援に向かった日本軍はこの戦いに
         大敗し、その結果百済王は高句麗に逃れ、王族・貴族の大部分は日本に亡命し、
       百済は滅びた。日本も多年の半島経営を断念。 以上 小学館 国語大辞典

             (まとめ)(2015年12月)
 『日本全史』(講談社)によると、日本軍が白村江の地で大敗したのは8月28日という。旧暦の8月は当然秋であるが、ここは馬場が旅をしていにしえの戦地、白村江を眺めている秋のことを「静かなる」と形容している。もちろん、663年の白村江の景を二重写しに読んでもいいのだろう。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 258(韓国)

2019-10-25 19:02:53 | 短歌の鑑賞


ブログ版馬場あき子の外国詠1(2010年12月実施)
   【白馬江】『南島』(1991年刊)74頁~
   参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
        T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放
                

日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
    ここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教
        へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。

258 たゆたひの心しばしば暗かりし韓国に来つズックを履きて

      (レポート)
 どのようなたゆたいなのだろう。日本と韓国の中世から近世へつづくながい確執を思うと作者の生きてきた時間の中に暗く立ち上がる罪意識に似た思いがあったというようなものであろうか。そんな思いを抱かせる韓国にこの度は「ズックを履きて」やってきたのだ。上の句の暗い心とは反対に下の句は旅にふさわしい軽装を言い、一首に明暗を織り込んでいるのだが、「ズックを履きて」暗くなりがちの心を引き立てているのかもしれない。(慧子)


           (当日意見)
★負い目があってのたゆたい。(曽我)
★そうですね、日本人として負い目があるから韓国の旅をしようかしまいか、たゆたいがあった
  が、ようやく決心して旅に出てきた。謝罪の気持ちを表すなら正装すべきかもしれないが、旅の
 移動に楽なようにズックを履いてきた。ますます韓国には申し訳ないような気がする。「ズック
 を履きて」の卑近な例示がリアルだ。「日本と韓国の中世から近世へつづくながい確執」とレポ
 ートにありますが、そこは違います。白村江の戦いは古代ですし、明治から続いた韓国併合、戦
 争中の諸々など20世紀も21世紀も大きな問題を抱えて、今なお確執は続いています。(鹿取)


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馬場あき子の外国詠 257(韓国)

2019-10-24 19:34:55 | 短歌の鑑賞

ブログ版馬場あき子の外国詠1(2010年12月実施)
  【白馬江】『南島』(1991年刊)74頁~
   参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
        T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放
                

日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
    ここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教
                へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。

257 秋の草名を知らざれど手に折りて韓の陽眩しわづか目を伏す 
     (レポート)
 はじめての草なのだろうか。「名を知らざれど手に折りて」が作者にしてはおとなしい表現だが、異国にての行為のゆえか、そこはかとなく味わいがあるのは下の句「韓の陽眩しわづか目を伏す」という消極的な行為の為であろう。思えば「秋の草」は韓国の民、または民に愛されている草のように思う。自国と韓国の古代文化のまぎれないつながり、ながい確執など歴史とこの風光の中で、みずからの情緒も含め、「眩し」み「わづか目を伏す」のである。「眩し」の漢字表記は全体を甘くさせない効果があり、三句の「手に折りて」の「折りて」は祈りに似ている。字が似ているだけでなく、掲出歌には祈りにかよう心がある。(慧子)

           (当日発言)
★心の深い歌。結句に思いが凝縮されている。目を伏せているのは韓国だから。(藤本)

     (まとめ)2013年9月
 秋草は日本にはない種類のものだったのだろうか。藤本さんの発言は、作者があとがきに述べているような「長い長い歴史の告発を受けているような悲しみを感じて」目を伏せていたのだ、と言いたかったのだろう。作者は韓国の旅の間中、この悲しみを背負っていたのだろう。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 256(韓国)

2019-10-24 00:32:50 | 短歌の鑑賞


ブログ版馬場あき子の外国詠1(2010年12月実施)
       【白馬江】『南島』(1991年刊)74頁~
       参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
            T・H、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放
                

日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
    ここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教
                へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。

256 秋霞濃ゆき彼方に白馬江流るると言へば心は緊まる

     (レポート)
 とにかく秋霞が濃ゆくて白馬江はみえないのであろう。一首は実景に迫っているというより、たとえば松を配するのみの能舞台を思ってみたい。掲出歌は舞いながら謡う一人(作者)が思われる。流るると思うでも、流るるを聞くでもなく「流るると言へば」としているところなど、まさしく作者はシテなのだ。「秋霞濃ゆき彼方に」と幽玄を示し、四句「流るると言へば」と自己を顕たしめている。何も見えないところに自分の声が響き、それを聴いている。無辺なうちに「心は緊まる」と焦点を絞り込んだ結句だ。(慧子)


           (当日意見)
★ガイドなどが「見えないけど向こうに白馬江が流れていますよ」とあっさり告げた。そのあっ
  さりさと、自分の思い入れとのギャップを詠っている。まあ、レポーターのいうように自問自
  答でもよいが、いずれにしろ自分の中の白馬江とのギャップが主題。(実之)
★私はガイド説をとるけど。少なくとも声に出して〈われ〉が言ったのではない。この作者は「誰
 か言ふ」などのフレーズが出てくる作り方をよくしていて、そういう場合はいずれも天の声のよ
 うに必要な言葉がいずこからともなくひびいている感じ。
  この歌を読んで前川佐美雄の「春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思へ」
  (『大和』)が脳裡をよぎったが、それも少し計算されているのかもしれない。(鹿取)


      (まとめ)
 663年、倭国がここに出兵して大敗をきたした白馬江、いよいよその川にまみえるのかと、名を聞いただけで緊張している場面。
 この一連全体に関係するので作者自身の『南島』あとがきの関連部分を引用する。(鹿取)

    「白馬江」は同年の秋十一月、朝日新聞歌壇が催した歌の旅であるが、詞書にも
   書いたような事情で、私は白馬江に特別な感慨をもっていた。美しく、明るい豊かな
   流れが、夕日の輝きの中をゆったりと蛇行していた景観は忘れがたい。妖しいまでの
   淡彩の優美な景の川に船を浮かべて、長い長い歴史の告発を受けているような悲しみ
   を感じていた。(鹿取注:「同年」とあるのは歌集『南島』のハイライトである沖縄
   七島を巡る旅をした3月と同じ1987年という意味)
  

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馬場あき子の外国詠 255(韓国)

2019-10-22 18:16:25 | 短歌の鑑賞
  ブログ版馬場あき子の外国詠1(2010年12月実施)
    【白馬江】『南島』(1991年刊)74頁~
   参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
       T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放
                

    日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
    ここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教
                へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。

255 なみよろふ低山(ひくやま)の木々もみぢつつ韓国(からくに)や炎を発しをれり吾をみて

      (レポート)
 わかるようでしかと説明できない※「なみよろふ」については後述する。が、作者の位置からさほど高くない山が並び、それでいて寄るように重なっているとの意であろう。ちょうど「もみぢ」の頃であった。「韓国や」と感嘆しているのは、ただもみじの美しい国としてのそれではあるまい。つづく「炎を発しをれり」とあるように狼煙をあげるにかよい、それは単純な見立てに終わらず、韓国と日本の長いかかわりのゆえに、作者の何らかの意識にはたらきかけるのである。「吾をみて」とするゆえんである。意味から一首を考えたが「もみぢつつ韓国(からくに)や炎を」の三つの事象によって、くれないとかからくれないを想像させる力があって、美しさがそなわっている。(慧子)


           (当日発言)
★この一連では最初の詞書きが非常に重要で、それを踏まえてレポートしないといけない。「吾
  を見て」とあるが、背景の日本人全体に対して憤っている。(実之)
★「炎を発しをれり」は直接的には木々の紅葉のみごとさを言っているんだけど、実之さんが言
  われたように韓国の日本人に対する憤りの強さのイメージだと思う。「をれり」は、憤りを感
  じ取ってぎょっとしている吾の痛みの感覚をよく伝えている。作者のいつもの技で、紅葉した
  山(それは韓国そのものでもある)が吾を見て炎を発しているという構図になっていて、スケ
  ールが大きい。
  ところで歌とは直接関係がないが、馬場あき子一行の韓国吟行の旅は1987年11月、大
  韓航空機爆破事件が起こったのは同年11月29日である。帰国後の事件だったのだろう。
    (鹿取)

     (まとめ)
 斎藤茂吉の『あらたま』に「朝あけて船より鳴れる太笛のこだまは長し並みよろふ山」がある。おそらく、茂吉が万葉集の歌「とりよろふ」からヒントを得て「並みよろふ」という語を造ったのだろう。そして馬場あき子が茂吉の語を借用したのだろう。「並みよろふ」はどちらの歌でも「連なって寄り添っている」くらいの意味だろうか。
 結句が10音の破調だが、「吾」を押出さなければ定型に収めることが可能だ。定型を破ってでも「吾」を入れたい強い思いがあったことは一連全体に掛かる詞書を読むとよく分かる。この歌は序歌としての機能をしっかり果たしていて、次の歌からあふれるように思いが展開される。歌集のあとがきを読むとさらによく分かるが、長くなったのであとがきの引用は次回に延ばす。(鹿取)
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