かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 383

2025-01-08 10:02:37 | 短歌の鑑賞

  2025年度版 渡辺松男研究46(2017年2月実施)
    『寒気氾濫』(1997年刊)【冬桜】P154~
     参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:①曽我 亮子 ②渡部 慧子
        司会と記録:鹿取 未放          


383 等間隔に植えられているしずけさよ街路樹枝を差し交わすなし

       (当日発言)
★等間隔に植えられていて静かなんだろうか?(慧子)
★枝を差し交わすなしだから、少し離れて植えられているんですね。だから交流がない。もう少し間 が狭ければ枝を差し交わして交流が生まれ、ざわざわする、仲良くしたりケンカしたりいろいろある。でもそうでないから静か。そんなふうに書いてある通りに読みました。(鹿取)
★ほんのちょっと怖い感じがします。関係のなさみたいなものが。(慧子)
★没交渉というか、自分は自分という、それぞれが同じだけのテリトリーを持たされていて……何にもかかわりのない静けさ。(真帆)
★しずけさよというのは肯定と取りました。等間隔に並んでいる木達がそれぞれすがすがと一本として立っている。関係のなさ、とか没交渉というのとはニュアンスが少し違うと思います。(鹿取)

 

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渡辺松男『寒気氾濫』の鑑賞 381、382

2025-01-07 09:24:20 | 短歌の鑑賞

  2025年度版 渡辺松男研究46(2017年2月実施)
    『寒気氾濫』(1997年刊)【冬桜】P154~
     参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:①曽我 亮子 ②渡部 慧子
        司会と記録:鹿取 未放          


381 散りゆかぬ柏の枯葉風に鳴り襤褸を離さぬ冬木ぞあわれ

           (当日発言)
★結句の「あわれ」というのは潔さがないということではないですか。(M・S)
★散ってしまっていい物、時代遅れのものや不要の物が散らずにまだしがみついているところに未練たらしさを感じているのではないか、そのあわれさ。  (真帆)


382 久方の空澄みわたりゆえもなく元旦の日をおびえていたり

     (レポート②)  
 元旦の空の美しさに「おびえていたり」という心境は理解できる。澄み渡った光りに消えてしまいそうに思ったり、光りの様子をいたいと感じたりするものだ。(慧子)


         (当日発言) 
★何もかも一新され浄められている元旦に仕切り直されているような恐ろしさ。(真帆)
★仕切り直すということを、もう少し丁寧に説明してくれませんか。(鹿取)
★粛正されるという言葉がありますが、古来から何もかも新たにする元旦、塵一つ無いことを怯えたのじゃないかと。大晦日と元旦が全て変わる、あるかないかわからない神のようなものをみんなが念頭に置いているようで、何もかも爽やかになったことに怯える。(真帆)
★なぜ爽やかさを怯えるんでしょう?(鹿取)
★この作者は混沌とした有り様を是としているように思います。ですから、すごくこう美しさは恐れていて、ごみごみしているのが普通。美しくなってハッピーニューイヤー、さあ元旦ですよっていうのが怖い。(真帆)
★うーん、作者は「空すみわたり」と言っているので、家や町内のことではないと思います。世俗的な事ではなく、哲学的というか存在論的に何かを怯えているのだと思いますが。それに「ゆえもなく」がくせもので、この語にひっかかるんですね。空が澄み渡っていることを単純に怯えるのではなくて、それと関連はしているんだけど「ゆえもなく」が加わるんですね。(鹿取)
★「ゆえもなく」とあるけど、本当はゆえがあるのよというのが真帆さんの意見ではないでしょうか?こんなに綺麗でいいのか、それに怯える。自分が光りの中に差し出されてしまったような。澄んだ空は存在のかなしさを思わせるから11月でも12月でもいいけれど元旦の方が効果的だからそうしたのかと。(慧子)
★いや、元旦が意味を持つ歌でしょう。「元旦の日」の「日」ってもしかしたらお日様のことでしょうか。(鹿取)
★みんなの意見を聞いていると、曽我さんのレポートの空が澄んで不吉なことが起きるのではないかという意見に戻ります。(真帆)
★いや、不吉なことも何も起こらないのです。ゆえもなくは怯えるにかかると思います。(M・S)
★そうですね、やはり哲学的、存在論的な怯えだと思います。(鹿取)

 

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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 380

2025-01-06 18:15:00 | 短歌の鑑賞

  2025年度版 渡辺松男研究46(2017年2月実施)
    『寒気氾濫』(1997年刊)【冬桜】P154~
     参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:①曽我 亮子 ②渡部 慧子
        司会と記録:鹿取 未放          


380 絶叫をだれにも聞いてもらえずにビールの瓶の中にいる男

      (レポート①)
 声の限り大声で叫んでいるのに誰にも相手にしてもらえずビール瓶の中に隠れるしかないあわれな私です…底なしの悲しみが歌われている。(曽我)

      (レポート②)  
 ビール瓶に映りこんでいるであろうを瓶の中にいる男とすることで想像の域が広くなる。生きている場はつづまり瓶の中しかなかったのか。井の中の蛙状態のような人物像を思ってみたりもする。いずれにせよいびつな状態の男の絶叫がビール瓶の中にむなしく響いている。ムンクの叫びを思う。   (慧子)


            (当日発言)
★ビール瓶の中にいるのは作者だと思います。ぶくぶくとアワが上がってくるので、みんながいろいろぶつぶつとしゃべっている中で自分は何も言えない、そんな感じ。でも、このビール飲んだらまずそうですね(一同、笑い)(真帆)
★宴会の席にいるんだけど、どうも自分は分かって貰えない、そういう違和感や苛立ちや孤独感をこういうふうに歌っているのかな。あんまり理屈で考えるとつまらないので、ビール瓶の中で絶叫している小さな男の図を漫画チックに思い浮かべています。滑稽だけど哀れですよね。慧子さんのいう「井の中の蛙状態」というのは、ちょっと意味合いが違うと思います。(鹿取)
★ビール瓶の中にいると外からは自分は見えないけれど、外の人々の心が見えているんじゃないでしょうか。だからすごく面白いところに隠れたなと。(M・S)

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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 379

2025-01-05 10:48:25 | 短歌の鑑賞

  2025年度版 渡辺松男研究46(2017年2月実施)
    『寒気氾濫』(1997年刊)【冬桜】P154~
     参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:①曽我 亮子 ②渡部 慧子
        司会と記録:鹿取 未放          


379 寒々とあるばかりなる此岸にて下仁田葱をひもすがら抜く

        (当日発言)
★下仁田葱は群馬県の特産で、嬬恋のキャベツとか松男さん地元ですし、よく歌ってますね。自分自身がこういう作業をしなくても、ずっと目にしてきた情景なんでしょうね。此岸という語で一気に自 分の内面に引きつけた歌にしています。また、地元の歌ではなく大きな世界を提示していますね。(鹿取)
★此岸にての「にて」が場所を表すのか理由を表すのか、ちょっと迷いました。「あるばかり」がとても強調されていて、此岸「だからこそ」と取ると、下仁田葱がすーすーと人間みたいに抜けていくような感じもして……違うでしょうか?(真帆)
★格助詞「にて」は、この場合「場所」を表すと読みましたが、表には「原因・理由」も載っていますね。(鹿取)
★そうすると、「にて」は場所ですか?理由ですか?(M・S)
★場所ととっても理由ととっても、言っていることはあまり変わらないと思います。「此岸にいて」でも「此岸であるから」でも。(鹿取)
★この世は世知辛くて望みも無いので…とか。(真帆)
★いや、この場合の此岸はそういう世俗的な意味合いでは使っていないと思います。存在していることそのものが「寒々とある」という把握で、私は慧子さんのレポートの「高い視座を得ている」辺りに賛成です。(鹿取)
★シ、シ、ヒってiの音を続けていますけれど、存在の寒さを感じつつ、〈われ〉は一日中葱を抜く労働 をしている。ことさらに言っていないけど、そういう労働を大切なことと捉えていると思います。だから葱を人間に例えているとかではない。(鹿取)


       (レポート②)  
 畑とせず此岸とすることで生活や労働の捉えが大きくなり、下句「下仁田葱をひもすがら抜く 」には儚さや美しさまで感じられる。「寒々とあるばかりなる」を否定的に解したくなるのだが固有名詞下仁田葱と此岸によって全体が否定でも肯定でもなく、現実を浮かび上がらせながらどことなく高い視座を得ている感じ。(慧子)

 

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馬場あき子の外国詠 343 スイス③

2025-01-04 11:25:04 | 短歌の鑑賞

 2024年度版 馬場あき子旅の歌47(2012年1月実施)
      【アルプスの兎】『太鼓の空間』(2008年刊)170頁~
     参加者:N・I、K・I、井上久美子、崎尾廣子、鈴木良明、
        T・S、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:藤本満須子         司会とまとめ:鹿取 未放    
               
    
343 にくげなく酔ひて足踏みうたふゆゑスイスの学生の群れに近づく

            (レポート)
 342番歌(スイスの夜の楽しき酔ひにまじらんと飲めば肩ふれて国境もなし)と同じく、異国での人との出会い。人恋しさ、開放感溢れる歌。飲んで歌ったり踊ったりしている「にくげな」き学生達のテーブルに近づいていって、自らその輪の中に入っている作者を想像する。「にくげなく」の初句が効いていて若さあふれる学生達を受け入れている作者がいる。どこを旅してもその土地の人々と親しみを込めて会話し、親近感を覚えている作者、「人間が好き」という作者の外国旅行での人々との出会いがじゅうぶんに詠われ、読者に伝わってくる歌だ。(藤本)


              (当日意見)                            
★「にくげなく」は年上の人間からの見方。(曽我)
★作者を知らなくても年配の視線であることが分かる。(藤本)
★でも、可愛いというと歌はつまらなくなる。(鈴木)
★「にくげなく」は感覚として意味が分かりますが、辞書には無い詞です。古語辞典を引くと「にくげ なり」という形容動詞はありますが、「にくげなく」だと形容詞としての活用だから、文法的には間違いといえるのかな。憎らしい、醜いを打ち消している言葉ととっておきます。好もしい学生の群に交わりたくて自分から近づいている。たぶん、店全体が盛り上がっているのでしょうね。(鹿取)

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