妻は、病気の影響で、咀嚼、嚥下の機能も大分落ちて、食べ物を飲み込みにくくなっている。食べ物を見ると、これは食べにくい、飲み込みにくいとしきりに言い出し、そして、「見た瞬間にもうそれは食べない。」と食べ物をはじいてしまうようになった。私から見ると、ただでさえ、好き嫌いが多い上、選り好みが多くなったように感じ、食事のメニューに頭を悩ましている。それで、最近は、夕飯はワタミの宅食にしているのだが、肉が入っていると、それは食べないと初めから食べようとしないから、食べるものが極端に限定されてきてしまう。そこで、味噌汁に野菜を多く入れたり、豆腐を入れるようにしたりして、味噌汁でできるだけ栄養補給をするようにし、宅食の内容を見て、何か一品を加えるようにしているのだが、毎日のことだ、頭が痛い問題だ。
私が妻に、「好き嫌いが多すぎるよ!」と指摘すると、「私は、好き嫌いはない。」と答えて来る。どこをどう考えたら、好き嫌いがないと言えるのだろうか?と頭をかしげてしまう。私は、柿が好きなのだが、妻は甘柿は食べず、渋柿を渋抜きした柿しか食べないといった具合で、好みの違いは甚だしいのだが、妻が主婦していた頃は、食事は自分で作って食べるのだから、当然、嫌いなものは作るはずもないし、食べる必要もない。だから、好き嫌いはないと言っているのではないかと思う。
私は、食事を摂ることも仕事の一つとして育てられたように思うし、食卓に出されたものは、残してはいけないとずっと考えてきた。だいたい好き嫌いを言っている余裕などない生活環境の中で、育ってきたのから、何でも食べるのは当然と思ってきた。仕事をするようになって、昼食はほとんど職場の食堂で済ませてきたので、食べる物を選ぶことはできず、美味くても不味くても、ただ腹の中に入れる、それが仕事だったし、家に帰ると、妻の作った物を腹の中に入れるだけだった。仕事に好き嫌いなんて言っていられない、ただただ、「仕事」をこなすだけだと思ってきた。私にとって、美味しいとか不味いとかは二の次なのだ。
好きな味や好みはその時々で変わるものだ。その時の体調によっても変化していくだろう。子供の頃は食べられなかった物でも、歳を経るに従って、食べられるようになることも多い。一度食べてだめだったから、それを嫌いな物としてはじいてしまい、食べられるものを限定していくのはどうかと思うのだ。食事のことばかりではない、もっと食べ物を含め、すべてのことに対して過去の経験に拘るのではなく、柔軟に考えていくことが大切なのではないかと思う。
まあ、こんなことばかり考えているから、妻との溝は深まるばかりなのだが、これは、なかなか埋められそうもない問題、根本的な問題だと思う。