死の迎え方は様々だ。今一番多く、一般的な死の迎え方は、癌が全身に転移し、余命数ヶ月と宣告され、衰弱し切って、肺炎等を併発して命を落とすというもの。本人は、体調不良や痛みに苦しみ、衰弱し、最後には意識が混濁し、肺炎等を併発して命を落とすというもの。この他にも、事故によって命を落とすことも多い。ある日、歩いているところに突然、自動車がぶつかって来たり、飛行機が墜落したり、時には、落雷に当たって命を落とすこともある。家族にとってとても恥ずかしく、かつ、恨みを残すが、他人事にはうらやましい命の落とし方は腹上死というところだろうか?天寿を全うし、眠るように静かに命を落とす、これが本人も周囲も納得できる、一番幸せな命の落とし方なのだろうと思う。
ところで、妻は、後、数年で死を迎えることだろう。妻は、口うるさく、言われる側の私からすると、腹の立つことも多い。しかし、時に、ボソっと、「そんな風だと子どもたちに嫌われ、相手にされなくなるよ!」ということがある。自分がいなくなった後の私を心配しての言葉だろうと思うが、言われたときは、口には出さないが、内心、「そんな後のことはどうでも良い。私はこれまで生きてきたし、これからも生きていく、人に何と言われようが、自分の生きたいようにする。」と、妻の言葉への反発心が私の心の中を支配している。しかし、ひとりの時に、「私を心配してくれているんだなあ!」と、ふと思う。
私は、少しぼけも始まっているようで、物覚えは悪く、物忘れもかなりのもんだ。その点、妻はがぜん意識がしっかりしている。ただ、違うのは、妻は全身の筋肉の力がどんどん衰えて行く「ALS」という病気に罹っているということだ。私が戻ってきて2年半近くになるが、最初の頃はまだ一人で歩けたし、手助けもほとんど必要としていなかった。ところが、病気の進行に従い、杖が必要になり、移動は車椅子が必要になり、最近では、立ち上がっても、10秒程度でバランスを崩してしまい、捕まるものがないと立っていられなくなった。少し前まで、歩行器を使えば、トイレに行っても一人で戻って来れたが、今は、それもかなり不安に思うようになっているようで、わたしがトイレのところまで迎えに出るようにしている。
これまで掃除や食事の支度は私がしていたが、食べたり、用を足したりといった基本的なことは妻が自分でしたいたが、これからはどんどん介助する部分が増えていくのだろうと思う。この病気は進行しても、意識はしっかりしていてぼけるということはないらしい。本人があれしたい、これしたいと思っても、体がいうことを利かない。そこで生じる「苛立ち「や「落胆」は周りでは想像もできない程のものがあろうと思う。
ところで、妻は、「人工呼吸は付けたくない。」と言っているが、私は判断が付かずにいる。恐らく、判断できないままずっといることになることだろう。妻の意識がはっきりしている状態で、呼吸が苦しくなった場合、それを見ている側の私としては、果たして妻の意思を貫いて、「人工呼吸を付けないでください!」と医師に言えるのだろうか、今の私にはそれを決断できる自信は全くない。正月に、息子たちが来たときに、じっくり話しておかないといけないと思うのだが、どう話を切り出して良いものやら、優柔不断で、皆目検討がつきかねている。