光のみちしるべ ~愛だけが現実~

私たちは皆、神様の子供。
内なる神の分光を輝かせましょう。
5次元の光のピラミッドがあなたを待っています。

光のシャワー

2010年06月05日 21時52分56秒 | プロフェッショナル
先日、「ある魂との対話」を書きましたが、
一般の方々からすると有り得ない話なので驚かれた方もいるでしょう。

私も毎日こんな魂とばかり接しているわけではありません。
ふだんはイエス様、マリア様、天使たちとお話しています。
仏教的には、観音様、菩薩様たちです。
そして、龍神様です。

浄霊というお役目もあるので、
様々な方々がやって来ます。
でも、ほとんどの方は天に還られます。
天使さんたちと手をつないで上っていかれます。

それはとても美しい光景でもあります。
光のシャワーの中を上って行かれます。
歓喜の声を上げながら。
ゴールドの光に導かれながら。
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深大寺

2010年05月21日 23時25分39秒 | プロフェッショナル
本日、調布にある深大寺へしとりんと行って来ました。

神事を行うためではなく、単純にデートのためでした。

NHK「ゲゲゲの女房」で有名になった深大寺は、

金曜日というのに日曜日以上の人出でにぎわっていました。


私としとりんは必ず本堂の上にある「開山堂」へ行きます。

そこには写真の通りの方々がいらっしゃいます。

私たちは、その方々とお話しするのが楽しくて必ず立ち寄ります。

特に薬師如来はしとりんとつながるので、見ていて面白いです。

私はチベタンベルを鳴らして厳かにご挨拶させていただきました。


昼は深大寺そばを大いに堪能し、

ゲゲゲの鬼太郎のお店に寄って大いに楽しんで来ました。

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今後のヒーリングについて

2010年05月17日 07時40分31秒 | プロフェッショナル
昨日(5/16)は、3人の方がヒーリングセッションにおいでくださいました。

私のヒーリングがどれだけお役に立てているのか、正直わかりません。

しかし、実際に行なっているのは天です。

高次元の皆様方です。

私はその道具にしか過ぎません。


そうはいうもののヒーリングにお出でくださることは、

とても嬉しいことです。

最近は5次元以上のところへ行っているみたいだし、

私の知らない高次元の方々もサポートしに来てくれているし、

どんどん進化しているような感覚があります。


だから、先日重大決意したことをそろそろ書こうかと思います。

皆様にお知らせしようと思います。

この続きは今夜に‥。
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「小規模多機能ホームみちしるべ」でお世話になった皆様へ(2)

2010年03月17日 18時01分03秒 | プロフェッショナル
皆様、お元気ですか?

1年前の3月31日に「小規模多機能ホームみちしるべ」を閉鎖し、
皆様方には大変なご迷惑をおかけしました。
心からお詫び申し上げます。
そして心から感謝申し上げます。

皆様と過ごさせていただきました日々は、
今もなお色あせることなく私の胸に刻まれています。
ダイヤモンドのように、黄金のように光り輝いております。

早いもので、あれから1年になろうとしています。
そして私はヒーラーの道を歩んでいます。

主に私が行っているのは、

1.プラニックヒーリングをベースにした『ヒーリングセッション』
2.未成仏霊さんを天(光)にお帰りいただくための『浄霊』
3.『お家や土地の浄化』

の3つがあります。

もしも、このような分野で私に出来ること、
お力になれるようなことがございましたらお知らせください。
心からお待ちしています。


連絡先maria_minoru2012@jcom.home.ne.jp
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ふたたび、現れた目

2010年03月14日 16時49分19秒 | プロフェッショナル
昨日、今日と、外出中に空を見上げると、

霊気漂う雲が現れました。

歩きながら、その雲を見上げていると、

数分後に私を見おろすかのように鋭い目が現れました。

こういうことは珍しいことではないけれど、

強烈なメッセージを送ってきているのがわかります。

今日なんかは別々の雲が猛禽類の目となり、

強烈なテレパシーのような信号を送ってきていました。

家に着いてデジカメで写真を撮ろうとしたけれど、

すでに目は消えていました。


2日前から私の体調は風邪のような花粉のような症状で、

寝込みたくなるような状態になっています。

それでも聴こえてくる声は、

「光を降ろせ。光を注げ。光を照らせ」と何度もこだまします。

次から次へと声が響き、鋭い目は私の胸を貫いてきます。

(寝込んでなんかいられない)

そう思う私でありました。
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歌と浄化

2010年01月31日 16時46分07秒 | プロフェッショナル
私は15歳のときから教会の聖歌隊のメンバーとなり、

大学でも聖歌隊のメンバーとなり、

さらにゴスペルバンドのリードボーカルとして、

全国大会に出場するほど歌ってきました。



しかし、あるときから歌えなくなりました。

歌うことが苦しくなり

ずっと歌うことを沈黙してきました。

沈黙は9年にも及びました。

それを一昨年、

倍音のワークショップに参加したことをきっかけに、

徐々にその苦しさから解放されてきました。


今年に入り、多くの天使たちが私の元にいるのを感じました。

天使たちは私が歌うとき一緒に歌ってくれて、

浄化の働きをしてくれます。

そのことを感じるようになりました。


(ひとりで歌っているわけではない)


ようやく、そう思えるようになりました。

そして聴いてくださる方は生きている人だけではなく、

それ以外の方々も聴いてくださっていることも。

まだ天に還られていない方々、

高次元の方々、

自然の草木たちも、石たちも、

地球も、

宇宙の果てまでも、

私の歌声が響き届いていることを。

神様、ありがとう。

イエス様、ありがとう。
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チベタンベル

2010年01月31日 16時40分41秒 | プロフェッショナル
日々の祈りに欠かせないチベタンベル。

龍の紋様に一目ぼれで購入しました。

常に私と共に歩んでくれています。

使い込んで、紐が少しずつほつれ始めてきましたが、

朝に夕に、浄化の音色を奏でてくれます。

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台風が去った後に

2009年10月08日 19時13分37秒 | プロフェッショナル
次なる仕事が決まった後に台風がやって来て、
浄化の一夜を過ごしました。

思えば半年前にみちしるべを閉じて、
再びゼロに戻りました。

でも、新しい舞台の幕が開き、
新たな物語が始まりました。

私はただ自然の流れに身をまかせて、
天の思いと共に前進するのみです。

もう何も気負わない。
力まない。
リラックスして、
朗らかに歌いながら、
自分のリズムで進んで行くだけです。

神様が望むところであれば、
何処へでも行きます。
私の使命が達成され、
私の運命が実現するまで、
この地上に神様と共にいます。
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ピーちゃん、天国へ‥そして妖精となる

2009年09月07日 23時31分15秒 | プロフェッショナル

5年前、みちしるべ(認知症デイサービス)にやって来たセキセイインコ。
まだ名前はありませんでした。

瞬く間に、ご利用者さんたちのアイドルとなり、人気者になりました。

名前は、「ピーちゃん」と名付けられ、
みんなから「ピーちゃん、ピーちゃん」と親しまれました。

見学に来られた102歳の女性の方が、
このピーちゃんを見て利用を決めたことがありました。

カゴに指を入れると男性ご利用者さんが、
「やられちゃうよ」とピーちゃんを一目おいていました。

そんなこんなでご利用者さんも、スタッフたちをも、
いつも心を癒してくれました。

 

でも‥、ご利用者さんもスタッフも全員帰ってからは、
私と二人だけの時間過ごしました。

疲れきって大の字になって伸びていると、
突然私を励ますかのように、「ピー!、ピー!」と鳴いてカツを入れられたり、
そうかと思うと、止まり木の上で愛嬌よく左右に身体をふって踊ってくれました。

今年の3月末でみちしるべを店じまいし、
この新しいマンションに引っ越してきました。

そして、8月9日の夜、容態が急変し、
夜間の動物病院へ緊急で駆け込みました。
一時は良くなって帰宅しても大丈夫とのことだったのですが、
マンションに到着し、部屋に入るなり亡くなりました。

あっという間の出来事でした。
玄関に入ったときはまだ生きておりました。
部屋に入ってもまだ生きておりました。
自分の足で立っておりました。

それが、数秒後には両足を後ろに伸ばして、
硬くなっておりました。

「ピーちゃん、家に帰りたかったから、元気になったように振舞ったんだね」

そうして、何も言葉にならないまま、しばらくピーちゃんを見詰めていました。


翌日、動物霊園で火葬し、骨を骨壷に入れて帰宅しました。
みちしるべを見守るお役目が済んで、
新しい住居も見届けて天に還って行かれたんだね。


私の目には、ピーちゃんがカワイイ妖精になって、
空を飛んでゆく姿が見えました。
光に包まれて仲間たちのもとへ還って行かれました。

ありがとう、ピーちゃん。
ありがとう、ピーちゃん。
これからも天から見守っていてね。

 


ピーちゃんが亡くなったことは、なかなかこのブログに書けませんでした。
でも、ようやく掲載する気持ちになりました。
ここにつつしんで皆様にご報告申し上げます。

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ああ、酷暑

2007年08月26日 11時11分10秒 | プロフェッショナル
ああ、◆△◎★~▽$○◆というわけで、1ヶ月以上もこのブログを放置してしまいました。 

(申し訳ねぇ) 



さて、8月7日(火)に練馬区介護保険課より実地指導(監査に準じるもの)がありました。
午後2時に3人のGメン(?)が来て、事務所で書類のチェックが始まりました。
冷房のない事務所はたちまち蒸し風呂のようになりましたが、
扇風機を2台つけ何とかしのいでいただきました。

あちこちに書類の不備が頭に浮かぶ私は気が気でなりませんでしたが、
相談員とケアスタッフたちはここぞとばかりに、
「こ~んなベッピン見たことない♪」と賑やかな歌を歌い始め、
ラテン的な陽気さに家中が包まれました。
区職員さんたちはどう聴いていたでありましょうか。

そして1時間後、管理者の私が呼ばれ、実地指導の結果が言い渡されました。
結果は何点かの改善点を指摘されたものの、
それほど重大な不備はなく何とか無事に終了いたしました。

区のGメンたちは用意したスイカを食べることなく、風のように去って行きました。
(本当は食べたかったに違いない。だって最高級の尾花沢スイカだもの)

ほっとした私は、凄い勢いでスイカを食べたのは言うまでもありません。


バンザイ!


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プロフェッショナル ~オリジナルこそ命~ ⑩

2007年04月29日 09時35分52秒 | プロフェッショナル
その訃報は前職の知的障害児通園施設の施設長からだった。
ある晩、勤めを終えて帰ると電話が鳴った。

「じつはマー君のお母さんが亡くなったんだ」
「えっ、本当ですか?」
「しかも自宅で首を吊って自殺だったんだ」
「‥‥‥」
私は絶句した。言葉が出てこなかった。

「どうして自殺したんですか?」
と尋ねると、
「今年卒園して養護学校に入学してから、
担任の先生とうまくいってなかったようだ。
話が出来ないまま、いろいろなことを一人で抱え込んでしまったのだろう」
「そうですか‥」
「マー君はあなたが担当していたから連絡したんだけど、
葬儀には行くかい?行くならば時間と場所を伝えるけど」
私はちょっと思案したのち、
「いえ、私はもうそちらの職員ではないから、ご遠慮します」
と答えた。
「そうかい、そうだね。あなたはもう私たちの職員じゃあないから無理することないよ」
そう言って電話は切れた。

マー君は私が就職2年目に担当した子供だった。
知的発達の障害が認められ、5歳になっても言葉を発することがなかった。
お友達と一緒に遊ぶこともなく、一人で遊んでいるだけだった。
お母さんと二人暮らしの母子家庭であり、生活保護を受給されていた。

お母さんは私と会うと、
「先生、うちのマーが滑り台やジャングルジムの高い所に上ったら、
落ちないように一緒に上ってね」
と口癖のように言っていた。
事実、その通りに一緒に上っているのを見ると、
「先生、私の言ったこと、ちゃんと覚えていてくれたのね」
ととても嬉しそうにされていた。
少しずつマー君にもお母さんとも関係が築いてきた頃、
ある晩の8時頃、何処で調べたのか私の家に電話を掛けてきたことがあった。

「先生、マーはこれからどうなるんでしょうか?
それを考えると毎日不安で寝られなくて‥。
先生、今から家に来てくれない?
相談したいこともあるから‥。
園ではなかなか話が出来ないから‥」
という内容だった。

本来ならば勤務時間は終わっているから、
時間外に家庭訪問することは上司の許可なくして行くことは有り得ない。
まして上司と相談もしていない。
本当に相談があれば、後日時間をとって園でゆっくり話を伺えばいい。
それなのに、緊急性を感じた私は車に乗って、マー君の家まで出かけた。

ところが、玄関先に現れたのは、マー君とお母さんだけでなく、
ステテコ姿でいかつい顔の男性だった。
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プロフェッショナル ~オリジナルこそ命~ ⑨

2007年04月01日 09時29分50秒 | プロフェッショナル
自分が身に付けたリハビリの知識、技術、経験のすべてを注ぎ込んだ。
また施設内の寮母さんたちのリハビリに対する理解も十分に浸透していたので、
Hさんのリハビリにはとても協力的だった。
リハビリを行っているとき、
介助員である私の仕事を代わってくれることもあった。

励ましの言葉と温かい見守りの中、Hさんは懸命にリハビリに打ち込んだ。
きつい訓練のときも明るく前向きに取り組んでくれた。
Hさん自身も歩けなかった人が歩けるようなった場面を、
何度もこの施設で目の当たりにしている。
だから、自分自身も歩けるようになると信じたに違いない。

そんな全員の思いが一つとなったとき、
何ともあっけないほどHさんは歩けるようになってしまった。
多少左足を引きずるものの、杖歩行で自立レベルまで到達してしまったのだ。
杖を使ってスタスタと歩くその姿は奇跡でも何でもなく、
驚きもせず、当然のことのように周囲は受け止めた。
ほんの2ヶ月間の出来事だった。

こんなことってあるのだろうか。
これには他ならぬ私自身が驚いていた。

「よしこうなったら、お世話になったS病院の先生にお礼に行こうぜ」
とリハビリスタッフに提案した。
「もう歩くことは出来ません」と宣言した医師のもとへ連れて行こうというのだ。

「先生、どんな顔をするかな?」
「さぁ、何とも思わないんじゃない?」
「自分が言った言葉は覚えてないよ、きっと」

そんな私たちの思いをよそに、Hさんは相変わらずニコニコ顔だった。
S病院の診療時間外に薬を受け取り行く用事があったので、
Hさんを一緒に連れて行った。
S病院に到着して、事務所でその医師を呼び出してもらった。
数分後、歩いているHさんを見るなり、立ち止まったままフリーズしてしまった。

そして、一言、
「あ・る・い・て・い・る・・・・」と小さい声で言うと、
おもむろに歩き始めて事務室の奥に引っ込んで行ってしまった。

(やったぁ!)と私は小さなガッツポーズを決めていた。
Hさんは、「先生、何も言わず行っちまったよ」と、
消え去った方向を指差しながら笑っていた。
帰りの車の中では大爆笑だった。

しかし、そんな私の浮かれた気持ちを打ち砕くかのように、
ある訃報が入ったのだった。
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プロフェッショナル ~オリジナルこそ命~ ⑧

2007年03月07日 06時30分16秒 | プロフェッショナル
「もう歩くことは出来ません」

残酷なその言葉に、寮母さんたちは失望し、落胆していた。
医師の言葉なのだから、受容れるしかない。
皆がそう思っていた。

いつも人懐っこい笑顔で、右手を上げて「おはよう」と挨拶してくれるHさん。
園芸クラブでは、麦わら帽子をかぶり花の手入れをしてくれる。
施設での生活に満足しているふうでもなく、
かといって不満を言うのでもなく、
淡々とご自分の世界をもって暮らしていた。
そのHさんが歩けなくなるなんて、
人の手を借りて生きていくのはそう容易いことではない。

しかし、私だけは違っていた。
その医師の言葉は、私の内に眠っていた反骨心というものに火をつけた。
メラメラと怒りにも似た感情が炎のよう湧き上がってきていた。
この特別養護老人ホームに入職してから、初めて覚悟を決めた瞬間だった。

(何としてでも歩けるようにする!)

かたくなまでに、そう自分自身に言い聞かせていた。
MRIやCTスキャンなどの脳の断層写真を見たわけではない。
医師としての治療が出来るわけではない。
しかし、必ず歩けるようになる、という100%の確信があった。

入院から1週間ぐらいしてお見舞いに行くと、
ベッド上のHさんは自分の身体の左側を右手でさすって、
「どういうわけか、こっちが動かないんだよ」と笑いながら首をひねっていた。
明るい表情を絶やさないでいてくれたことは、逆にこちらが救われた思いだった。
この病院には理学診療科があるのに、
何故か積極的なリハビリを行っている様子は見えなかった。
「Hさん、必ず歩けるようになるよ」と病室で手を取って話しかけていた。
そして、間もなく車椅子にて退院されてきた。

すぐさま東海大学病院リハビリテーション科に受診し、専門医に診察していただいた。
そして、Hさんの訓練メニューが決まり、リハビリの日々が始まった。
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プロフェッショナル ~オリジナルこそ命~ ⑦

2007年02月24日 07時18分30秒 | プロフェッショナル
― 覚 悟 ―

しかし、高齢者分野で生きていくという覚悟が、まだ自分にはなかった。
知的障害児療育への断ち切れぬ思い、
大学時代から希望していたPSW(精神科ソーシャルワーカー)への道もあきらめられず、
はたまたゴスペルミュージックを聴きに米国へ渡りたいという夢もあり、
ひとつに決められない優柔不断さというものが私の欠点だった。

そんな思いとはうらはらに、施設内リハビリテーションはどんどん先に進んでいった。
寝たきりの人が自力で起き上がり、自力で車椅子に乗って移動するということは、
ベッド上の世界から開放されることだった。
ナースコールを使うことなく自分の好きなときに起き上がり、
会いたい人のいる場所へ行く。
それは他の居室であったり、寮母室であったり、医務室であったり。
玄関ロビーのテレビであったりした。
そんなちょっとしたことであっても、
大きな自由(自己選択、自己決定)の獲得だった。

それと同じように、車椅子の世界から開放される人も現れた。
歩けく力はあっても、バランスや筋力などの運動機能の低下が障害となって、
安全(転倒からの回避)という名の下で、歩くことをあきらめた人たちのことだった。

最初は平行棒内での守られた空間での歩行訓練から、
平行棒から飛び出して廊下を歩いての歩行訓練へと移る。
そして玄関から外に出てベンチに座りお日様に当たる。
そんな当たり前の生活が実現していった。
自分はこんなにも歩けたのかという喜び、
喪失した自信というものが戻ってくる瞬間でもあった。

そして、「あっ、○△さんが歩いているぅぅぅ~!」と、
口をあんぐりあけて、目が点になってしまう寮母さんもいた。
小さな奇跡が施設内のあちこちで起きていた。

東海大学病院リハビリテーション科での研修は、
こんなにも大きな成果をもたらしてくれた。
実際、プロと呼ばれる専門職の人たちの側にいるのは、とても心地良かった。
短い会話の中には無駄な言葉がなく、
それでいて患者さんたちを励ます言葉にはユーモアと力があり、
張り詰めた空気の中にもリラックスした緊張感があった。
私は医師やPTたちにいろいろな質問をし、
その訓練方法を見よう見まねで吸収していった。

そんな矢先だった。男性入居者のHさんが脳梗塞で倒れたのは。
救急車で搬送された病院の医師から、
「もう歩くことは出来ません!」との宣告をされたのだった。


つづく
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プロフェッショナル ~オリジナルこそ命~ ⑥

2007年02月23日 06時54分34秒 | プロフェッショナル
それはまさしく20分間の攻防だった。


限られた時間を有効に使うためには、
念密に準備から訓練終了までの段取りを行なう。
そのシュミレーションが確立されていないと事故につながる。
片麻痺の人が車椅子から降りてマットに横になるという行為だけでも、
技術的な修練を要する。
方法を間違えれば頭からマットに落ちてしまえかねない。
お互いの信頼関係がなければ出来ない。
ホットパックでさえも気をつけなければ低温火傷を起こしてしまう。
常にリスクと隣り合わせの訓練だった。

そのリハビリ訓練の内容は地味だ。
拘縮し固まってしまっている肩関節、肘関節、膝関節などの各関節をホットパックで温めたのち、
ゆっくりと可動域訓練を行っていく。
マット上で行う訓練はざっと以下の通りだ。

① 関節可動域訓練
② 体幹(たいかん)のひねり
③ 左右の寝返りから起き上がり
④ 筋力アップ訓練(腰上げ等)
⑤ バランス訓練(膝たち、膝歩き、座位バランス、起き上がり、立位バランス等)
⑥ 平行棒内歩行訓練(平行棒内での立ち上がり、歩行、方向転換)

訓練のメニューとしては多彩だ。
20分間ですべてが出来るわけではない。
その日の体調によって数を減らしたり、ときには休んだり、
とにかく無理しないことを心がけた。
その結果、日常の介護の場面にどんな変化をもたらしたか。

まず、ベッド上での寝返りが容易になったことで、
オムツ交換が楽に行えるようになった。
さらに腰を少し上げられるようになったことで、
さっと交換が可能になり、時間が短縮された。
(この時代、まだ紙おむつは登場しておらず、すべて布おむつだった)

次に寝返りから起き上がり、車椅子への移乗動作(トランスファー)介助が楽になったこと。
力まかせに本人を抱きかかえて起こさなくともよくなった。
ベッドで端座位になるときの位置と車椅子を置く向きをちょっとだけ工夫すれば、
ほとんど本人の力だけで立ち上がり車椅子に乗り移ることが出来る。
その応用は、車椅子からトイレでも可能だった。
こうなると寮母さんたちは適切な声かけと見守り程度の介護でよくなった。

また麻痺側の拘縮していた各関節が少し動く(開く)ようになったことで、
衣類の着脱が楽に行えるようになった。
浴槽の中でも握ったままの手指をゆっくり開くことで、清潔を保つことが容易になった。

他にもいろいろあるが、このように各介護の場面で、
その効果は目に見える形で現れ始めた。
このことに驚嘆したある寮母さんは、
いつしか私と一緒にリハビリ訓練を行うようになっていった。
またベッドサイドでのトランスファーの教えを乞う人も現れた。

このように施設内リハビリテーションは大きなうねりを起こし、
少数派から多数派となり介護の柱となっていった。
そして私は“出る杭”から、“出すぎた杭”となり、
打とうという者は誰もいなくなった。
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