この頃は詳細な天気予報を調べるには市外局番+117へ電話して調べるしか術がありませんでした。前日、0749+117で調べると快晴と言う事で混雑した大垣夜行に飛び乗って西へ向かいました。124号機は原型窓ながらも乗務員から前面窓からの雨漏れの申告があり窓周りに白パテで補強したのでこの時期の124号機は少し顔つきが違います。 78,05,05 柏原 9115レ EF58124号
40年前の05月は臨時”銀河53号”に東京機関区配置のゴハチの中でもお気に入りだったEF58124号機が充当されると言うので急遽、大垣夜行に乗りました。この頃、東京機関区に足しげく通ってゴハチの運用を教えてもらっていました。当時は61号よりも精悍な小窓原型の124号を主に追っ掛けていた時代でもあります。
40年前だと当然東海道新幹線は開通していましたが新幹線がフォロー出来ない時間帯は在来線が補完する運転継体を持っていたので定期列車で20系”銀河”が設定されていました。繁忙期は”銀河51(52)号”が運転され、さらに最繁忙期は”銀河53号”が運転されていました。
この”銀河53号”(9115レ)は東京駅を23:50頃発だったために05月だと名古屋以西で十分撮影可能でした。レアな運用もありましたが通常は東京機関区担当でした。下りだけの設定で上りは8106レで品川に回送されていました。たぶん14系が1本しか捻出出来ずに8106レで品川に着いた14系は車内整備と給油するとまた9115レとして充当されたのではないでしょうか?
その日の前日、東京機関区で124号機がこの”銀河53号”(9115レ)充当されると聞き、更に庫を覗くと仕業検査を受けていたので間違いなく動く事が保証されたので、連休中で混雑は懸念されましたが大垣夜行に乗り込みました。今なら連休中の大垣夜行は大混雑でしょうが40年前だとマスコミで取り上げる事も無く世間的には認知度が低くかったおかげでグリーン券を奮発すれば何とか座れたものでした。大垣で跨線橋ダッシュで有名な西明石行に乗換えましたが別に京都とか大阪に行くのではなく降りるのは柏原でしたのでゆっくり歩いた記憶がありますがそれでも座れたのか、逆に立ったのか全く記憶にはありません。
快晴の天気予報が空が白くやっと影が出る程度の天気で失望したのてすぐに帰宅したと記憶に残っていましたがネガを辿ると昼頃は関ケ原で撮影して午後に柏原に戻って伊吹山ので出ていない近江長岡―柏原のお立ち台で回8106レを撮影して帰宅しているみたいです。
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DT200A@CF-F9
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