既に、この当時から可部線沿線は広島のベットタウン化されていました。たしか呉線と共通運用だった記憶がありますが、定かではありません。 81,04,17 中島 742M
30年前の4月は可部線の73系を撮影しています。当時、親交のあった私より少し歳上の障害者が東京暮らしに見切りをつけて、実家にある広島へ帰ると言うので見送り兼介助で同行したついでに撮影したと記憶しています。
今でこそ鉄ちゃん漬けの生活ですが、若い頃は何か他人に役立てないかと障害者の世話をしていた時代がありました。そのときに出逢ったのが広島の開業医の御曹司の先天性の脳性麻痺の肢体不自由の障害者でした。お父様は一代で広島の中堅病院を立ち上げた方で、広島では名士と呼ばれた方でした。事実、広島・横川の○田と言うと本当に広島駅前から彼の実家に迷わずタクシーが辿り着いたのには驚いてしまいました。またその血筋なのでしょうか?彼もとても頭の切れる奴で、手が不自由なのでノートに書いて記憶すると言う事ができないので講義内容を全て記憶して、それを知識にしてしまうと言う素晴らしい天性を持ち合わせていました。当時は障害者であるが理由で大学進学もままならず、そのほとんどが在宅障害者になってしまっていました。そんな人生を拒否した彼は大学に入りたいと声をあげましたが受け入れてくれる大学などありませんでした。致し方なく彼は青山学院大学の聴講生として4年間大学に通ったと言う経歴を持っていました。今でこそ青山学院大学は障害者の受入に積極的な大学のひとつですが、当時は障害者が大学のキャンパスに立ち入る事さえ拒否する大学でした。それは青山学院大学がどうこうではなく、社会全体が障害者に偏見を持った時代でしたから致し方ない事だったと思います。当時は学生運動も東大・安田講堂闘争敗北以来廃れたとは言え、今ほど形骸化されてはなく、彼の「障害者と言えども大学に入って学びたい」と言う想いを叶えようと、学生代表(主に革同)が大学側と話し合い、彼を聴講生と言う立場でキャンパス内に入る事を許したと言う経緯がありました。そんな障害者の地位向上の先鋭的な立場を突っ走ってきた彼もさすがに親元を離れ他人に24時間介助されながらの東京生活に疲れたと言って広島に帰る事となり、その介助で広島まで当時一番親しくしていた私が同行しました。
彼を広島の実家に送り届けて、彼の実家に一泊してから可部線を撮影して、さらに次の日も同和工業片上線を撮影をして帰宅しました。この写真はその時の1枚です。まぁ、こんな機会でもない限り、機関車屋の私が可部線の73系を撮りに行く事はなかったと、今も思っています。
ところで彼の実家には数回、泊まらせていただいていますがチョっと怖いというか面白い経験をした記憶があります…と言うのも病院で患者さんが亡くなったシーツは縁起でもないので、二度と病院では使用できないが、とは言え捨てるにはもったいないので彼の実家のシーツとして使用しているとの事でした…と言うことは?と布団を敷いてくれていたお手伝いさんに”この、これから私が寝ようとしているシーツも誰かが死んだシーツなの?”と聞くと、可愛いお手伝いさんは笑顔で”洗ってあるから大丈夫ですヨ!”と答えてくれました。その日以降、彼の実家には極力泊まらないようにしたのは言うまでもありません。この時も彼を実家に送り届け、仕事を数日休みにしたなら、しばらく泊まっていけば?と言うお母様のお言葉に丁寧にお礼をして、一泊だけして帰ってきたのし言うまでもありませんでした。
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