DT200Aの庫 (goo-blg)

さらば”大垣夜行”


 ”臨時大垣夜行”に充当され最後に上京した名カキ165系が大垣へ回送される姿です。この列車を最後に大垣電車区の165系はその歴史を閉じました。  01,05,06 東戸塚 

 3月14日のダイヤ改正をあと10日後に控え”富士・はやぶさ”引退の喧騒は熱を増しています、休日ともなれば東海道線のホーム端等に溢れんばかりの鉄ちゃんの姿に普段の自分の姿なのでしょうが、思わずその数に驚いて思わず身を引いてしまいます。こんな喧騒の影に隠れて”ムーンライトながら”も後数日の命となってきました。
 現行の”ムーンライトながら”は96年に373系特急型電車に置き換え時に全車指定化された際に命名されたもので、それまでは165系で運転される”大垣夜行”の名で愛好者に親しまれていました。
 この”大垣夜行”の歴史は古く、昭和30年代にには123レ(124レ)として東京-大阪間に運転されていました。その後いくつかの合理化の波を乗り越えて現在の東京-大垣間の夜行列車として運転されてきました。昭和40年代には一時全区間廃止の計画が立てられましたが、当時の国鉄総裁がこの列車の廃止問題で国会に呼び出され、野党議員から追求の上、廃止は撤回となり電車化及び東京-大垣間の区間短縮で残った経緯もあります。
 私にとって”大垣夜行”と言えばEF58を追っかけていた時代にずいぶん乗った記憶があります。夜遅くなってから「今夜の荷2031レはロクイチらしい!」とに情報に大垣夜行に飛び乗って、関が原に向かったことを今も鮮明に憶えています。また、近江長岡や彦根へゴハチを撮りに行くにも良く使いました。当時は金曜日でなければボックスシートを一人で占有出来るほど空いていました。グリーン車も横2列を占有できて非常に快適だった記憶があります。
 その後、この列車の知名度が上がり、また”青春18きっぷ”の発売でこの列車は混雑するようになりました。特に学校が休みの時期はこの”大垣夜行”では床に座ることさえ出来ず、立ったままで夜を明かす事もあったそうで、その噂を聞くようになり私は”大垣夜行”を使うことはなくなりました。
 オンシーズンには混雑緩和のために定期の”大垣夜行”の続行で臨時”大垣夜行”が運転されるようになりましたが、これがまた本当に予備車とわかる形式を充当していたのも思い出します。JR東日本側はほとんど使わなくなった167系や165系を、JR東海側は165系を借り出していました。特にJR東海側は165系廃車後は一時神領電車区の113系を使用して運転しましたが真冬に停車駅で長時間ドアが開け放しとなる113系はあまりにも評判が悪く、JR東日本側の温情で臨時”大垣夜行”をすべて受け持つようになりました。
 その後はJR東日本の急行型電車の淘汰で臨時”大垣夜行”は183系・189系特急電車として運転されるようになり臨時”ムーンライトながら91(92)号”として発展的解消しています。
 近年は夜行高速バスの充実で”ムーンライトながら”も一時ほどの混雑も見られなくなり現在は臨時”ムーンライトながら”も運転されなくなっています。
 今改正での廃止後も”ムーンライトながら”は臨時列車として存続とはなっていています。事実、早速春休みの時期に臨時”ムーンライト”として運転計画がされていますが”みずほ”廃止の時と同様にいつしか消えていく運命にある事は火を見るより明らかだと思います。(寝台特急”みずほ”が廃止になった時は臨時列車として存続と謳っておきながら廃止後数日臨時運転しただけでいつしか運転しなくなり、スジも消えてしまいました。)

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