EF65PF型が東京機関区に新製配置されたのは78年(昭和53年)の事でした。当時のEF65Pの走行距離は日本一走る機関車として有名でした。それもそのはずで東京-下関間を一往復すると2,000キロも走り込んでしまいます。このため交番検査は約14日間で行われていました。(通常の貨物用の機関車なら30日程度)
その頃、20年以上酷使されたP型は日に日に輝きを失いはじめていました。事実、70年代後半に入るとP型の機関車故障による列車遅延が目立つ様になりました。特に507号機はよくバーニア付き電動カム軸式制御器が故障したのを憶えています。仲間うちで”また507が壊れたヨ!”なんて会話もありました。
そして、国鉄当局も重い腰をあげP型の置き換え用としてEF65PFの8次車を新製しました。この少し前にEF10~15型の置き換え用にEF65PFを新製して新鶴見機関区に配置しましたが、その続きでロットで作製されました。
この時期のPF型というより新製されたきは電機はメッキ作業の改善のためにナンバープレートがペイント書き。そして下枠交差形のPS22型パンタグラフで作製されました。PFの初期車とは一見して違う機関車でした。PF型に限らずナンバープレートは切り抜き文字よりも見づらく、安っぽい見えたのは私だけではなかったと思います。
ただ、老朽化したP型を見る度に哀れに見えてしまったので、ピカピカのPFが東京機関区に回送されて来た姿を見て興奮したのも事実です。
そしていよいよPF型が順次ブルトレに充当されたのだと思いますが、その頃のドラマは全く記憶にありません。P型牽引のブルトレを追っかけた記憶も無くたんたんと眺めていたのだと思います。唯一憶えているのが新製回送ではスノープロー付だったのが制輪子の交換に支障をきたすと言うことで重連用のホース類と共に外されて運用に充当されATS車上子保護カバーが露骨に見えるブルトレ機も品がないなぁ…と思ったのは記憶にあります。
そしてPF型ブルトレでの天下安泰を信じていましたがが85年3月改正での”はやぶさ”ロビーカー連結による瀬野-八本松間(通称セノハチ)の勾配での定数不足から思っても見なかった夢のEF66の登板となりPFのブルトレ天下も思いもしなかった短い7年の命でした。
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東海道線の有名撮影地のひとつでもある金谷-菊川の大カーブを行くPF牽引の”あさかぜ4号”この日はこの前を走るEF58を撮りに来たのですが、事前の情報とは異なりHゴムのEF58が来てしまいふてくされて撮った1枚です。またこの日が生まれて初めて車を使っての鉄ちゃん出撃の日でもありました。法廷速度遵守で夜中の東名高速を走っていて長距離トラックにパッシングで煽られたのが懐かしく思い出します。 81,05,30 金谷―菊川 10レ