冬至近くになると16時位でも太陽のパワーがなくなり、露出に苦労させられました。幸いにも高麗川橋梁や多摩川橋梁等、西側に障害物が何もない区間があり、撮影には好都合でした。この写真はペンネームでRMに掲載されました。 91,12,01 小宮-拝島 5264レ スキャナー : Nikon COOLSCAN ⅣED TMY
20年前だとまだ八高線に貨物列車がたくさん走っていて、その貨物列車を追い掛けて休み毎に八高線へ出撃していました。
八高線を初めて訪れたのはまだ小学生の頃だったと思います。夏休みに横浜線に乗って(当時は蒲田電車区の103系が1本だけ横浜線に投入されていましたが他はすべて73系で、当然ながら103系も含めて全部非冷房の時代でした)八王子構内に近づくと八王子機関区にD51がほのかに煙を上げて待機している姿に一挙に舞い上がった事を覚えています。この頃は既に八高線にはDD51が入っていましたが、まだD51も動いていて真夏の金子駅で一日、貨物列車を眺めていました。当時は当たり前の様にタブレット閉塞で金子駅には駅員も配置され、小学生の私を若い駅員が相手をしてくれた想い出があります。その後、八高線の蒸機列車のサヨナラ運転が高麗川以北と高麗川以南のそれぞれ運転されましたが、当時文通していた親が国鉄職員で保土ヶ谷官舎に住むお兄さんに連れられて両方共に出掛けた記憶があります。その後はゴハチの魅力に没頭した事もあり八高線の事は私の脳裏から消えていってしまいました。
竹沢-折原間にサミットがあるのですが、寄居側からは20パーミリの勾配になっています。これに対して高麗川側からは急な勾配もなく難なく登ってしまいます。ロケーション的には峠の寄居側より高麗川側が良いようでした。 91,12,14 竹沢-折原 5293レ スキャナー : Nikon COOLSCAN ⅣED TMX
そして時が経ち、自分が自由に車を運転出来る年齢になったころ、ゴハチもいよいよ末期となっていきました。被写体も変わっていくなかで東武57型と共に八高線のDD51が気になり始めました。最初は1月に運転される高尾臨(高尾山初詣列車)や休日の朝に運転される事の多かった高崎ー高麗川間の団臨に出掛ける程度でしたが、いつしか(たぶん87年頃だと思うのですが…)12系の臨時列車よりも普段走っている貨物列車が気になりだしました。当時は八高線の撮影ガイド等は皆無でしたが、蒸機時代の知識もあり撮影地はある程度土地勘もあり、ダイヤもなく、RMに掲載されていたDD51の運用表に書かれている時刻を頼りに撮影に出掛けたのが八高線通いの最初だと思います。
現在は線路の向こう側は住宅地になっています(最近、行ってませんのでひょっとしたら手前も住宅地になっているかもしれません)。 91,12,14 越生-明覚 5293レ スキャナー : Nikon COOLSCAN ⅣED TMX
八高線の貨物列車廃止直前の98年頃には場所取りをしないと良いポジションが確保出来ない時代になってしまいましたが、80年代後半は高尾臨運転日以外はまず同好者に逢う事はなく、桜の満開の金子駅でさえ、カメラを持った人をチラホラ見掛ける程度でした。
そんな時代ですから現場の方々には珍しげに(変人)に見られていました。竹沢駅には同じ労働組合の役員(高崎地本の書記長だったはず・・・本人は左遷と言ってますたが、まさに今の私と同じ境遇でしょうか?笑)がいて、撮影の合間に寄って組合の話しをした事もありました。
撮影を重ねると前日なら八高線の貨物列車のウヤばかりか、貨車の両数までわかる現場ある事を知り、幾度となく情報収集でお世話になりました。特に撮影に絶好の時間帯を寄居から八王子に向けてDD51重連で走る5294レ(5264レと名乗った時代もあります)はフル編成の13車で走るかどうかが鍵で事前にそれが判るのは大変に助かりました。(ちなみにDD51の重連での積車だと定数は14車ながら有効長の関係で13車がいっぱいと聞いていました)
小川町を発車して東武線を越え、下り坂で加速して峠に挑みます。この辺りはかなりのスピードにもかかわらず、エンジンを噴かして通過していきました。5270レ~5274レの2往復は通称「小宮」と呼ばれていた小宮発着のセメント貨物です。 91,12,14 小川町-明覚 5270レ スキャナー : Nikon COOLSCAN ⅣED TMX
10年以上八高線を撮影しているといろいろな事が変わっていきました。まず道路事情では八高線に通い始めた頃は八王子バイパスがまだ開通しておらず、八王子の高尾よりの16号踏切を渡るのにとてつもない渋滞に閉口しました。また拝島の横田基地横の16号も片側1車線で一日中渋滞していました。それが今では圏央道が出来てしまい、八高線沿いを通る事すら少なくなってしまいました。また八高線のDCも当初はキハ40や足尾線用のキハ20も時折入線していた時代でした。その後、キハ30に統一されたかと思うと相模線電化で余剰転配された相模線オリジナルカラーのキハ30が入って来て異彩を放っていました。それが今は南線は電車で、北線はキハ110で時代は確実に二世代変わったのでしょうか?
この日の5264レは最大13車となりますが、8車の日が多かったみたいです。この場所では13車だと編成が乗らなくなります。
この写真は8車ながらホキ5700で統一されているので気に入った写真です。 91,12,01 竹沢-折原 5264レ スキャナー : Nikon COOLSCAN ⅣED TMX
八高線の貨物列車が全廃したのが99年ですから、この写真の時代から8年後です。当時は八高線から貨物列車が無くなるなんて思ってもみませんでしたので横浜から八高線へ通うのは大変だからと高麗川辺りの良い物件があったら思い切って引っ越してしまおうかと本気で思っていた時代でもありました(今思えば冗談の域を出なくて幸いでした。本気で引っ越していたら、今頃後悔していたでしょう~笑)。
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