DT200Aの庫 (goo-blg)

0系新幹線電車 定期運用離脱


 東京第一運転所で入換中の0系電車(留置中の0系電車の運転台から撮影。写真の上の暗い部分は正面ガラスのスモークの部分)77,12,  東京第一運転所構内

 明日を持って0系新幹線電車が山陽新幹線から定期運用を離脱します。64年の東海道新幹線開業以来、幾度かのマイナーチェンジを経ながらも基本設計を変えることなく平成のこの時代まで走り続けた0系こそ、日本最高傑作の鉄道車両と言って過言ではないと思います。
 東海道新幹線から0系が去って9年が経ちました。かつての16両編成も半分にも満たない6両編成で山陽新幹線で細々と走っていた0系も時代という効率化の波に押され、いよいよ去る日がやって来ました。来月は0系さよなら運転が運転されるようですが、所詮イベントですので0系にとって明日をもってその歴史に終止符が打たれたといってよいでしょう。
 私にとって0系新幹線電車はいわば青春そのものだったと言っても過言ではないと思います。1977年4月に国鉄新幹線総局に入社し、品川にあった東京第一運転所に配属になり、所属する労働組合が国鉄の推し進める国鉄解体と言う施策とは異なる(反対する立場)として、運転職場から追放されるまでの10年間は0系と共に苦楽をとこにしました。
 入社直後3ヶ月の研修期間を経て最初に配属されたのは(0系電車の)交番検査でした。新参者は一番汚れる床下担当になるのが常で、ご多分に漏れず私も毎日、毎日0系の床下で真っ黒になりながら夢中で仕事をしました。
 言われるままに無我夢中に仕事をしていく中、何年かたって少し余裕が出てくるといつしか自分の仕事に誇りと自信が持てるようになって来ました。一日の仕事が終わり退庁の頃、自分の検査した編成がリネン整備され”ひかり”のサボを出して出区待ちしている姿に若いなりにも自分の仕事のやりがいに浸る事が出来ました。
 これはこの頃得た私の持論なのですが、0系は走るに手堅く、停まるに斬新に設計されたと言って過言ではないと思います。力行はED75で実績のあったタップ制御を手堅く採用したのに対して、ブレーキは当時、ほとんど実績のなかったタイヤクリーナー付きディスクブレーキを採用し高速運転がゆえに踏面保護に重視を置いた台車を見て関心した事を思い出します。また、半導体など夢のまた夢の時代だった昭和30年代にリレーを駆使して作ったATC等に新幹線開業前の先人の巧に感心したものでした。
 当時の国鉄はマル性運動という当局の労働施策が崩壊(失敗)した後の、労働者中心の職場環境のために当局(会社)側にゴマをする人間も少なく、お互いに仕事の恥だけをしなければ、すべてOKの時代でした。今から思えば時代錯誤だったのでしょうが、当局など眼中になく助役(管理者)は虫けら以下でした。そして職場環境がそうしたのでしょうが労働者だけがが主役ということを疑うことはありませんでした。それだけの自負があるからこそ運転事故と言う恥だけはタブーでした。自分の恥(自分が検査した箇所が不具合を起こす。)は国鉄の恥と先輩から何度も叩き込まれたのも懐かしい想い出です。
 あの当時は点検ハンマーの代わりに竹刀を持って歩いている検査長もいました。その検査長がいつも”小僧たちが生意気に手を抜くな、手を抜くのは車両を知り尽くしてからやれ!”その恐怖感は今も鮮明に覚えています。


 78,10,30 東京-新横浜(品川)

 私にとって特に19歳から30歳になる寸前までの多感な世代に身近な存在だった0系の定期運用引退のニュースを最初に接したときは冷静だった自分が、その日が近づくとなんだか昔の日を無性に思い出している事にふと気づきました。

お疲れ様0系、ありがとう0系!
昭和の時代がひとつ終わりました。


79,05,28 東京第一運転所 愛知植樹祭お召列車

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