午前には、
内なる探索的な生き方とはなんぞや・・
午後には、
師たるべきものの姿勢とは・・
と・・答えがでないまま、
特に、午後には
泥濘で戸惑う友の姿に、
何か良い知恵はないものかと
一日中、考え込んでいました。
ふと、思い出した文章がありました。
長男の学校から、家庭へ年一回発刊している雑誌があります。
華厳宗を学んだ
明恵の法語をまとめた
「栂尾明恵上人遺訓」は、
別称、
『阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)』 と言いますが、
これについて、
当時の校長先生は、次のように書いています。
(前略)
「阿留辺幾夜宇和」が表す態度は、
物事の「あるがまま」の姿を
無批判に受け入れることを勧めている訳では
決してない。
そこには、常に自分はどうあるべきかを
問い続ける不断の厳しい戒めがある。
「あるべきように」
生きるのではなく、
常にその時々の、
また、
その場その場での
「あるべきようは何か」
と問いかけを行い、
最善の答えを求めて生きていこうとする、
いわば実存的な生き方が
標榜されているのである。
(後略)
(2006年7月1日発行 M高校中学 大欅 No.46 P.7~8)
この文章に続き、
その場その場の最善を、
学校長としてどう実現していくかと述べつつ、
最後は、一人の人として
「・・・でき得れば、
こうした生き方・考え方を
貫き通して行きたいとも、また思う。」
と閉じられています。
友の前に広がる泥濘を見つめつつ、
私の心には、
”まずは、己を顧みよ” という言葉が
こだましていました。
前に出るほどに
まずは、自分のあるべきようを
謙虚に見つめることを忘れてはならないと
肝に銘じた一日でした。
あるべきよう
今後の進路の的を絞るのに、
あるべきようは何か?
と問うてみるのが 肝腎…
興味関心に惹かれての
やみくも 手探りでは
結局たどりつけないのかも
あるべきようは何か
深い~
自分にとって、最善のあるべき姿を追求するというほど、難しいものはないように思います。
やみくもに・・興味のまま・・流されるまま・・結構こういう生き方も好きです。が・・時に律しなくては、ダメなのでしょうね。
今後の進路を検討されているのですか?!