1997年、もう26年も前のことです。
英国の故シシリー・ソンダース先生が来日されました。
ホスピスの創始者である先生が、そのイメージをどのように作り、世界へ発信していったのか・・・
当時、私が勤務していた国立がん(研究)センター東病院の緩和ケア病棟(ホスピス)に訪問してくださり、デイ・ルームで講話して下さいました。
先生は、元々看護師でした。
腰を痛め、MSW(医療ソーシャルワーカー)となった彼女が、悪性腫瘍だったデヴィット タスマさんをケアしながら、今の医療に欠けていること、必要としていることなどを話し合う中で、トータルペインの(痛みは心も体も関係しあって、一人の人としてとらえていくという)概念や今のホスピスのイメージができていったのだそうです。
タスマさんは亡くなる前に、あなた(ソンダース先生)の作ろうとしている家の窓のためにと、全財産500ポンドを残したのだそうです。
その後、1960年頃、ソンダース先生は医学部に入り、医師となり、タスマさんとの約束をはたし、セント・クリストファーホスピスを設立し、そのホスピスの窓が500ポンドで作られたといいます。
ただ、先生が強調したのは、タスマさんとの美談でも、自身の努力でもなく、
「私は、皆さんに橋を架けに来ました」と
病院とホスピス、地域の中、英国から海外・・そして、日本へと疾病を抱える患者さんの苦痛に焦点を当て、QOLの維持、向上を目指すケアに注目するということでした。
その11年後。
2008年に英国にホスピス・緩和ケアの視察研修に行きました。
研修最後の日は、セント・クリストファーホスピスへの訪問でした。
シシリー・ソンダース先生と医学部で同級生だったというマリー・バイネス先生が、改めて、どうやってこのホスピスができたかタスマさんとストーリーを一番の親友の視点で、話してくださいました。
世の中にまったくなかった概念を、あきらめることなく、力を貯え、医学部に入り直し、その時がきたときに行動し、実現していったその力強さに、ただただ感嘆したことを思い出します。
セント・クリストファーの入口に立った時。
あの時、ソンダース先生が私たちに架けてくださった橋を、何年もかけて、私はここまで渡ってきたのだなあと感じました。
そして、あらためて、その窓を見た時、
タスマさんからのエールを感じたことを思い出します。
写真は、
セント・クリストファーホスピスのエントランスで、一階の入り口の横の横長の窓が、タスマさんの500ポンドで作られた窓でした。
今、私は、急性期病院で、
終末期というより、癌治療過程の早い段階の患者さん達の緩和ケアに従事しています。
こうした早い段階での緩和ケアは、ソンダース先生や国内の先達の道を、仲間と共に開拓していったものです。
専門医のシステム作りにも参加してきました。
どのようなことを始めるにも、継続するためにも、静かな情熱を持ち続けることの大切さを、こうした先駆者の生き方に学び、影響を受けてきました。
2008年の視察の時、高齢になられているマリー先生から直接お話を伺うことができたのは、1997年ソンダース先生が来日されていたころ、このホスピスに勤務していた日本人看護師の阿部まゆみさんの企画だったからでした。
様々なところに架けられた橋のお陰で、今があります。
一期一会に感謝しながら、昔の記憶を手繰り寄せた週末でした。
ホスピスは愛なんだなぁと、
それを象徴する話だと思っています
チャンスがあったら行ってみたい
世の中にまったくなかったこのような概念を
あきらめることなく
力を貯え、その時がきたときに
行動し、実現していったその力強さでした。
ブログにも書いていますが、今医者になって10年目を超えました。これからの仕事の方向性などを考えもやもやしたものを抱え、自分に苛立っていました。
でも、本当にやりたいこと、自分がなすべきと思ったことは、「あきらめることなく力を貯え、その時がきたときに行動し、実現」することなのでしょう。
目の前の成果ばかりにとらわれて焦りすぎる自分を恥じました。
アルガ先生がこうやってブログを通してかけられた「橋」がいつの日か、どこか私が「行くべき場所」へ到達させてくれるのだと思います。
ありがとうございました。
そうですね。
マリー先生も、シシリーはデビットが好きだったのだと思うとちょっぴり個人的なことにも触れていました・・
runaさん
本当に頑張っていらっしゃいますよね。2歳になられたのですね。私も紆余曲折がありましたが、ただただ苦しいだけだと思ったことも、振り返るとそれらにも意味があり、次の力の原動力になっていたことに気がつきます。
私はクリスチャンではありませんが、クリスマスを前にして、聖書の言葉を送ります。
“あらゆる物事には季節があり、神のもとにあらゆる目的には、そのための時がある。(伝道の書3章1節)”