(写真は、12月三重大学招聘頂いた時の伊勢湾の朝日)
15年位前のこと。
15年位前のこと。
(がん対策基本法制定前の緩和ケア啓発はほどんどまだのころ)
知り合いのクリニックから
ALSの患者さんが、一度緩和ケアの専門の先生に
会ってみたいと言われているので、
訪問診療への同行依頼がありました。
知り合いのクリニックから
ALSの患者さんが、一度緩和ケアの専門の先生に
会ってみたいと言われているので、
訪問診療への同行依頼がありました。
訪問してみると、
車いすに座った女性の患者さん。
車いすに座った女性の患者さん。
60代くらいだったでしょうか。
机には仕事の書類が広げられていたように記憶しています。
「緩和ケアって、ALSにも対応はしてくれるのですか」
緩和ケアの診療報酬にALSは含まれていませんが、
通常の診療の中で、苦痛の緩和に取り組んでいます。
「どんなことを?」
緩和ケアの診療報酬にALSは含まれていませんが、
通常の診療の中で、苦痛の緩和に取り組んでいます。
「どんなことを?」
体の動きのことで痛みが出れば、鎮痛薬の調整を
呼吸が苦しくなると、ハアハアした感じを緩和するために
薬を処方したりします。
呼吸が苦しくなると、ハアハアした感じを緩和するために
薬を処方したりします。
気持ちが辛かったり不眠にもお薬の対処はできます。
「どんな薬を使うのですか?とてもつらくなった時などは・・」
症状がとても強くなった時は、
体の状況や症状のタイプをみながら、
医療用麻薬の適応を考えることもあります。
症状がとても強くなった時は、
体の状況や症状のタイプをみながら、
医療用麻薬の適応を考えることもあります。
「モルヒネとか・・?」
安全に使えるようであれば、
呼吸のつらさ、痛みには効果がありますから、
選択肢の一つに入ります。
選択肢の一つに入ります。
「それですぐに死ねるのですか?」
・・・・・
死ぬために使うのではありません。
苦痛を和らげるためです。
苦痛を和らげるためです。
「緩和ケアって・・・
安楽死・・・
させてくれないのですか?」
させてくれないのですか?」
安楽死は、緩和ケアの役割ではないのですよ。
安楽死は医療ではなく、
(当時は、他国でも認められている国はありませんでした)
安楽死は医療ではなく、
(当時は、他国でも認められている国はありませんでした)
緩和ケアは、残された時間を長くする延命も,
短くする安楽死も目的ではないのです。
「いつかの時のために、聞きたいと思っていました。
緩和ケアでは、じゃあ何をしてくれるのですか?」
短くする安楽死も目的ではないのです。
「いつかの時のために、聞きたいと思っていました。
緩和ケアでは、じゃあ何をしてくれるのですか?」
生命の長短ではなく、
質をできるだけよくすることを目的にしていて、
苦痛を取り除くことは一生懸命一緒に取り組んでいきます。
質をできるだけよくすることを目的にしていて、
苦痛を取り除くことは一生懸命一緒に取り組んでいきます。
「じゃあ、もういいです。やっぱり駄目なんですね。」
このような相談は稀なことではありません。
でも、私には、
今まで多くの患者さんとの対話から
学んできたことがあります。
今まで多くの患者さんとの対話から
学んできたことがあります。
●体がいうことがきかなくなると、心も体を肯定できなくなること。
●社会からの冷ややかな視線は
これをさらに死に向かって後押ししてしまうこと。
●社会からの冷ややかな視線は
これをさらに死に向かって後押ししてしまうこと。
(あんなになってまで生きたいの?とか、可哀そうにね・・とか)
●でも・・・
やがて・・・
体がコントロールできないと感じることと
体がコントロールできないと感じることと
自分には価値がないということは違うのだ・・というところに
到達していくこと。
到達していくこと。
●このような人々は、
内的な価値観(寛容や根気強さ、慈愛)に気づき、
他者と比べた自分・・といった相対的価値観ではなく、
自分ならではの絶対的価値観を見出していくこと。
(これが私なのだから、これでよいのよと・・)
緩和ケアとは、
苦痛な症状を取り除きながら、共にあることで、
患者さんや家族が、
この 「やがて・・」 という境地を自ら見出していくこのプロセスを
一緒に考え、対話を続けていくそんな医療なのです。
医療者が答えを探るのではなく、
自ら見つけていく患者さんが主体なのです。
そして、安楽死といった結果ではなく、
支えるのはプロセスなのです。
「やがて・・」の境地に到達する患者さんと、
そうではなく死に向かってしまう患者さんとの間に
どのような違いがあるか・・
正直、わかりません。
ただ、一つ言えることは、
友人や隣人、家族、ケアギバーなど「共に居る人」がいて
孤独ではないということです。
(距離ではなく、心の中の人や祈ってくれる人も含めて)
一緒に考え、対話を続けていくそんな医療なのです。
医療者が答えを探るのではなく、
自ら見つけていく患者さんが主体なのです。
そして、安楽死といった結果ではなく、
支えるのはプロセスなのです。
「やがて・・」の境地に到達する患者さんと、
そうではなく死に向かってしまう患者さんとの間に
どのような違いがあるか・・
正直、わかりません。
ただ、一つ言えることは、
友人や隣人、家族、ケアギバーなど「共に居る人」がいて
孤独ではないということです。
(距離ではなく、心の中の人や祈ってくれる人も含めて)
この共に居る医療者・・・
優しさや厳しさ、思慮深さを大切にしていきたいと思います。
優しさや厳しさ、思慮深さを大切にしていきたいと思います。
今回、その人を思い出し、色々なことを思っています。
特に、先生が多くの患者さんとの対話から学んでこられたという4つの箇条書きのことはどれも重要なことだと思いました。
ありがとうございました。
毎回、他人事ではない…いつかは、自分や家族の問題になるかも知れない・・・先生のご講義や、症例などの話しはたいへんためになります。
こうして、ブログのご縁で、いつでも、貴女のブログを開いたら、為になる内容の話しや知識を身に付けたり、自分の福祉活動やボランティア活動にも役に立てれるように頑張りたいと思います。
私事ですが、コロナ問題で、なかなか本来の活動も出来ない状況ですが、今年度から、市の「介護サービス相談員」として、特養やデイサービスなどの施設へ訪問して、いろいろと利用者の相談にのったり、お話しを聞いたりする活動をしているのですが、コロナの感染が第二波の徴候で、たいへん、また、厳しい状況になりました。
先生のお仕事もたいへんですが、高齢で、糖尿病などの成人病を抱えている私には、感染はたいへんなリスクが高いですが、努力したいと思います。
また、よろしくご指導ください。有り難うございます。
そして、先生のブログ読んで涙が出ました。
「これがわたしなのだから、これでよい」
深い。
自身も含め、誰もがそう思えるようになれたら。
今ありのままのあなたが好きと共にいる周囲の人に伝えていきます。
ありがとうございました。
どの宗派であれ、いつの時代も、そういうときに威力を発揮してきた。
記事に登場する方の場合、信仰の類とは縁の無さそうな雰囲気。
宗教家たちには、相談に応じる時間も、実力もある。
あとは、橋渡し役だけ。
(ちなみに、死刑囚はときどき、僧侶や神父様、牧師と面会しています。執行直前にも。拘置所はその都度、面会のための手配をしています。)
応援、心に沁みます。
立ち止まって自分の心に問う機会を頂いたコメントです。本当にありがとう。
それぞれの人が、自分ができる役割を果たしていくこと、そのことこそ、生きるということなのだと思います。
どうぞ、お体お大切になさってください。困難なこの時代を共に乗り切っていきましょう。