⑯ 大阪と大坂(逢坂)
大坂なおみ 大阪なおみ ではない。
『大阪』は江戸時代には『大坂』と書いていた。そして、『土』がつくのは縁起が悪いから変えた、という話が一つの定説である。そして、明治になって、「大坂」から「大阪」に変化したということになる。しかし文献では、「大坂」という地名が初めて登場するのは、戦国時代、15世紀の終わりごろなので、それ以前はどう言っていたか諸説ある。
もう少し詳しく調べると、明治元(1968)年、「大阪府」が初めて設置される、そのときの公印には「阪」の字が使われたという。つまり正式にはこれを持って「大阪」が公認されたわけだが、しかしそう単純ではない、その後も「大阪」と「大坂」が併用される時期は続き、最終的に「大阪」に統一されるのは、明治20年ごろだとされている。また、幕末の庶民の狂歌に「坂」の字は土に反(かえ)るという意味になるので「阪」と書くべきだ、という意味の一節があるそうで、「縁起が悪いから」という説はこれに由るものと思う。
結局、どちらが正しいかではなく「大坂」から「大阪」への変化が、200年くらいの時間をかけて、ゆっくりと起こったのだ。
なお、逢坂は京都山科と滋賀県大津の間にある山の名で、そこを越えるのが「逢坂」である。蝉丸が詠んだ『これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂(あふさか)の関』で有名な逢坂の関は、それが西国の果てとされた。そこを越えると永く会えない別れとなる、従って、歌に多く詠まれている。
近畿地方には「逢坂」という地名は多く、京と地方を隔てることを意味する。ならば「逢坂府」でも良いのでは?今回はまともな終わりである。