脳出血で無職になった親父のブログ

株式投資に腕時計が好きなオッサンのブログです。年齢を重ねスピリチュアルにも興味を持ったお蔭で人生感も変わりました。

昭和45年 1970年 大阪万博

2015年04月28日 09時22分34秒 | わが半生
今では万博公園と岡本太郎作・太陽の塔が残る吹田市の千里にある大阪万国博覧会の跡地。当時は高度経済成長で日本の技術革新も目覚ましく発展しはじめたころです。私も、たった1度だけですが横浜にいる母の姉と、その息子に娘・・従弟になりますが大阪に呼び万博へと向かいました。とにかく人・人・人・・各国のパビリオンやダイダララザウルスという名称のジェットコースターが目玉でパビリオンの人気は【月の石】を一目見んとのアメリカ館がダントツ。次にソ連館(現ロシア)、勿論、日本館もあり日本館は大阪万博の象徴となる5つの円を基調としたロゴをモチーフに建築されていました。また日本の多くの企業もパビリオンを作っていてペプシコーラのペプシ館・東芝館、大阪ガスのガスパビリオンetc・・とにかく人・人・人と地面にはゴミが散乱してました・・今にして思えば会場の汚さは・・会場で撮影した写真を見ると・・ゴミが(+o+)地下鉄御堂筋線 千里中央駅を下車すると・・すぐに会場のエントランス。そして当時、話題になった【動く歩道】と言われる今では駅・空港であたりまえにあるエスカレーターを平面にしたものですが・・これが、ある日の新聞・テレビで『万博会場、動く歩道で将棋倒し!』報道。多くの会場入場者の中、新しい物好きの国民性?なのか我先にと動く歩道を利用した結果の事故が発生。どうです?考えられないでしょ?当時、私は小学校5年生。従妹とカナダ館に行きました。何が展示されてるわけでもなく、カナダ館は建物がオシャレで綺麗だったので行くと・・『!!』なんと、とても綺麗なお姉さん(外人)が受付にいたのです。男の子ですねぇ~。私と従妹はお姉さんの近くに行って何か話した記憶はあります。カタコトの日本語で返してくれたのですが、とても美人!でした。クレヨンしんちゃんの気持ち、とてもわかりますね♪万博会場は混雑・・どこのパビリオンも大抵、並ばないとは入れません。やっとの思いで入り館内見学とパビリオン内にあるスタンプを万博用スタンプ手帳に押していくのです。また会場の飲食が高い。。日中、ノドが乾いて『あそこのコーラ飲みたい!』見るとパラソルの下でお兄さんが飲み物を売っていたので母と行くと??『え!?100円も??』母の驚いた声が耳に入りました。余談ですが昭和40年代前半まで100円って、お札だったんですよ。1万円と5000円札が聖徳太子。100円札は板垣退助でした。当時、コカコーラは確かレギュラーサイズ(190CC入り)が30円程だったと思います。昭和40年半ばの物価から言えば割高もいいところ。従妹と合わせ母は300円を支払い飲ませてくれました。その時の母の顔は今でも忘れません。そんな万博会場・・あっという間に暗くなると太陽の塔の一番上の顔・・金色をしてますが眼から灯台のように光を発し会場をさらに盛り上げてました。大阪地下鉄御堂筋線・・大阪の中心地下鉄です。南は天王寺動物園のある【動物園前駅】~JR・近鉄:南大阪線などと合流するターミナル駅の【天王寺】そして靴で有名だった【大国町】~いわゆる【ミナミ】と言われる【難波・心斎橋】JRに南海電車・近鉄:奈良線に合流さらに北上すると大阪で一番のオフィス街【本町・淀屋橋】淀屋橋で京阪電車と合流~今度は『キタ』と言われる【梅田】やっぱり大阪で1番の乗降客数だけに混雑はすごかったです。JR・阪急・阪神電車と合流。大阪の中心ですね。さらに北上すると【新大阪駅】ここで新幹線に乗り換えできます♪万博開催に合わせ地下鉄御堂筋線は江坂~桃山台~千里中央と延長されました。地下鉄御堂筋線で桃山台や緑地公園など北側は住環境も良く通勤・通学に大変、便利です。地下鉄によりそうよに新御堂筋という道路も出来上がり北摂エリアの発展は急速でした。その代表が【千里ニュータウン】阪急電車も梅田~北千里までありますが、この沿線、各駅停車のみだったのです。今?今はどうでしょうね。大阪万博における経済効果は、かなり大きかったと思いますが北摂エリア(特に吹田市・豊中市・茨木市)の発展にも大きく影響しました。もう大阪万博から45年・・半年間の開催期間でしたが私の人生の中でもインパクトある思い出です。学校では万博で押したスタンプを見せ合いながら雑談するのも楽しかったですね。
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