脳出血で無職になった親父のブログ

株式投資に腕時計が好きなオッサンのブログです。年齢を重ねスピリチュアルにも興味を持ったお蔭で人生感も変わりました。

四畳半のアパート暮らし 幼少期

2015年04月04日 11時02分49秒 | わが半生
当時の国鉄片町線、現在のJR学研都市線ですが、とにかく本数が少ないので母と梅田の阪急百貨店の帰り京橋駅で乗り換えるのですが結構、待たされました。大阪環状線は割と綺麗でしたがローカル線の片町線は床は木の板でドアも1枚開き。車両の中心に何本かの手摺棒が床から天井に向けてあり、よく揺れる電車でしたので走行中は床からミシミシ🎵ギシギシ🎵と音がしたものです。夏は当然、冷房などありません。ドアの前あたりの天井にある扇風機があるだけです。その扇風機もスムーズに動かないのもあり首は回転し、なるべく広い範囲で風がくるようになっていたものの、とにかく夏は暑かった(^^;;窓枠も木製で、吊革も古い本当に初期の在来線でしたよ。阪急百貨店も当時のエレベーターには、ちゃんとエレベーターガールなる綺麗なお姉さんがいました。礼儀正しいて鼻から抜けるように『4階、紳士服売り場でございます。』てな感じで子供心にトキメキましたね。やっぱり男の子です(^^)エレベーターを待つとき今では軽やかな音もし現在の移動階がデジタル表示されますが当時は時計の針のようになっていまして針の指す階に今、エレベーターが止まってますよ🎵てな感じでした。エレベーターガールは百貨店には必ずいらっしゃってました(^^)いつ頃まででしょうか?私が高校生のときバイト先の同級生の女の子が高校卒業後、近鉄百貨店のエレベーターガールになったので、その頃までは居たのでしょうね(^^)当時の梅田はヘップもなければ三番街もありません。今、ヘップ横のエストの場所は国鉄の事務所で ヘップの場所には梅田コマ劇場がありました。京橋駅も雨の日は水はけが良くないせいか水溜りがところどころにあって。改札口には駅員さんが切符を切っていましたね。京阪の京橋駅駅も今みたいな大きな駅でなく京阪の野江駅みたいな小さな駅でした。京阪モールや京阪百貨店などは勿論、ありません。環状線も片町線も駅のホームはお世辞にも綺麗とは言えず煙草の吸殻もあちこちに落ちてました。昭和、戦後20年。まだまだビンボーな日本でしたが、どこか希望と夢があったような気がします。
コメント
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