脳出血で無職になった親父のブログ

株式投資に腕時計が好きなオッサンのブログです。年齢を重ねスピリチュアルにも興味を持ったお蔭で人生感も変わりました。

四畳半のアパート暮らし2(幼少期)

2015年04月01日 10時00分24秒 | わが半生
昭和37年~昭和40年頃(3歳から6歳)の大阪市内も少し歩けば田んぼや池もあり夏にはセミの声、秋にはコオロギが鳴いていました。当時は今のような大型ショッピングモールは勿論、ダイエー等の大型小売店舗もありません。鴫野駅の周辺には【市場】や個人商店が軒を連ね八百屋は八百屋、肉屋は肉屋その時々にお金を払っていました。市場や商店街は活況で夕方には人でごったがえしていたものです。当時、市場や商店街で買い物をすると切手のような券をくれるのです。この券を所定の台紙に貼って何枚か貯めると何か景品がもらえたようで母も、せっせと洗濯糊を使って貼っていました。今でいうポイントカードのようなものですね。私は恥ずかしい話・・3歳まで歩けなかったのです。いつも母にオンブされていたのは今でも鮮明に覚えており歩くだけでなく・・オムツも3歳までしていました。(*^_^*)当時は布のオムツで、どんな柄かも覚えています(+o+)両親ともに歩けない私を、かなり心配し病院に連れて行ったようですが医師から『心配ないですよ♪』と言われホっとして少したつと歩き始めたそうです。当時の公立幼稚園は1年なので今でいう年少・年中などありません。いきなり【年長組入園】なのです。私は人見知りも強く入園1週間は母の送り迎えで、とにかく幼稚園に着くと泣きわめき『オウチに帰る!!』と言ってきかなかったのを担任の村上先生が一生懸命に宥めてくれていました。幼稚園に行くようになり漸く友達も出来て世界も広がっていき遊びに行く行動範囲も広がりました。もちろん・・友達の家にお邪魔することも増えたのですが・・結構、みんなの家は戸建てが多くて四畳半一間の自分ン家と比べると、とにかく驚きばかり。幼心に(うちって貧乏なんや★)と自覚していくのです。畳屋さんの子やお寿司屋さんの子の家に誕生日パーティをするというので招待されました。母からは『手ぶらではいけないから・・でも持っていくものないし・・行くのやめておきなさい。』そう言われ翌日、幼稚園で友達に言うと『何にもいらないから遊びに来て♪』二人とも、そう言ってくれたので・・母に、そのことを言うと『・・・じゃ、行っておいで。』笑顔で許可を貰いました。二人の自宅にそれぞれ別の日に遊びに行ったら・・自分の部屋というものがあり、そこの広さが私の住んでいるアパート1室分ほど・・『ここの部屋・・T君の部屋?お父ちゃんとおかあちゃんは?』そう尋ねると『別におとうちゃんとおかあちゃんの部屋もあるよ。』正直、羨ましいいなぁと思うと家の中にお風呂・トイレに電話もあって・・自分の環境との格差に、ただただ驚くばかり。私は四畳半の部屋の壁際に寝ていましたが頭の近くにテレビがあって寝相が悪く頭が丁度テレビの下にあることも・・当時のテレビはブラウン管で画面の下に4本足をつけて固定されていました。チャンネルは当然、リモコンなんてなく”ガチャガチヤ”回すのです。当時は白黒(モノクロ)テレビなので映像に色はありませんし音もよくありませんが三種の神器といわれるくらい高価でアパート暮らしのウチになぜかテレビと冷蔵庫はありました。父も、かなり無理してたんどろうなぁと思います。
コメント
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