脳出血で無職になった親父のブログ

株式投資に腕時計が好きなオッサンのブログです。年齢を重ねスピリチュアルにも興味を持ったお蔭で人生感も変わりました。

高卒なら人と同じことをしてもダメ。(^-^)

2017年08月04日 15時00分15秒 | わが半生
消費者金融に就職すると収入は年齢の割に高く賞与もいいです(^-^)会社も当時は5億円従業員650名、支店は105店舗これから拡大するぞ〜って感じでドンドン出店していきました。
そんな頃、店長になるには梅田支店に異動することが1つの登竜門。なんせ消費者金融会社全体でA社梅田支店は日本一の規模を誇っていました。
フロアーが2階と3階に別れ私は2階フロアの班長として配属。ここで融資残高を伸ばさないといけないのです。ところが( ̄∀ ̄)与信判断の厳しい私には貸付決済を出さない事が少なくなく2階フロアの融資残高が伸びません。店長からは毎日のように叱られ、班長から1督促担当に下げられました。日本一の支店です。延滞も半端なく多く、レンタカーを借り徹夜で回収に翻弄する日も多くなり私は精神を壊し、退職しました。
ここで店長になろうの決めたのに。挫折。
まだ22歳の私は気持ちをリセット。とにかく、一人前の社会人になって家族を持って家の一軒でも買いたい!
関西基盤の家電量販店へ転職しましたが給料は激減。残業しても残業手当も出ない。土日祝日も仕事。僅か半年ソコソコで結局、消費者金融会社へ転職。L社でした。業界トップのT社は仕事がキツイとは知ってましたしA社にいた頃、もし?同じ消費者金融会社に転職するならL社がいいよ。と聞いた事もあったのです。
私は転職の時に提出する履歴書は靴屋さんと家電量販店しか記載しませんでした。正直に書くと不採用となることが何となくわかっていたのでL社へ提出した時は靴屋に新卒、そしてその後家電量販店。その方がキャリア的に良いので( ̄∀ ̄)A社にいた事書いたら?速攻不採用になると。思ったのです。何が何でもL社に入り出世してたくさんの収入を得るんだと強く思ったから。昭和58年3月わたしはL社へ、無事入社。またしても新店舗の、それも、なんで?ここに支店を出すのかな?という場所でした。大阪環状線玉造駅。L社も当時、出店ラッシュ。玉造以外に9店舗同時オープンを私が入社する少し前にあったのでした。でも出せばいいって問題??なんで玉造なの?とほ思ってましたが、ほんとヒマ。新規貸付は少なく新店舗なので督促もない。だから残業もないのです。
すると店長が『心斎橋支店の督促やってみる?もう1年近い延滞ばっかりやから勉強なるよ。』と言われ翌週、店長自ら100名ばかりの延滞している顧客台帳を心斎橋支店から持ってきてくれました。私もA社で培った回収ノウハウを使いながら知っていても、わざと知らない素ぶりを見せ店長から指導を仰ぐカタチを作りながら取り組んでいると、のんとも行方知れずになっていて心斎橋支店では管理部移管予定債権を三名回収したのです。
これが私のL社での出世の足がかりとなったのです。
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思いを貫くと必ず叶う。でもコツコツと。(^-^)フリーターからの出世

2017年08月04日 09時53分41秒 | わが半生
人生は思い貫きイメージすれば実現します(^-^)
これでいい。とか?
とうせ高卒だから?とか(^-^)
そんな思いを持っていたら今の私はないと思っています。
喫茶店のフリーターをし始めた頃から
今のままではあかん。結婚もできへん。
家も買えない。
この事だけは、ハッキリと分かってました。だから?『どうすればいいか?』
彷徨いました(^-^)先ずは福利厚生があって安定した収入を得る事。ラジカセ訪問販売の飛び込み訪問をしながら思い転職。
大手靴のチェーン店に就職しましたが、とにかく給料が安い。たくさんもらうには最低でも店長にならないといけないのか?と思い先輩に聞くと店長でも安い。『あかん、これでは。』元々、親の反対もあった靴屋さん。そして給料の高い会社を探しましした。私は将来、家を持ち管理職につく事。なりたくなかったサラリーマン。同じやるなら一生懸命。その心根だけは忘れずに。
今思うとお金、お金だったのです💰
でも誰もが通る気持ち?純粋に欲しい物が買えてたくさん収入を得たい。
それを知り、何かのきっかけで
お金がたくさんあること。
欲しい物を全て手に入れることが決して幸せとは限らないこと。
お金の力の強さと無力さを知ったとき。
人は変わるのだなぁと。
でも若い頃の私は、とにかく収入!
そして商品先物会社に応募しましたが不合格。
当時、布団の営業やレジャーランドの営業、不動産の営業とか高収入でしたが外回りの営業はラジカセ販売で懲りてましたので応募せず就職情報誌をペラペラめくっていると大手消費者金融のA社が目に飛び込んできたのです。親は『サラ金やないか。ま、勉強になるなろ。』と何故か?反対しなかったのです。そして梅田の曽根崎にあるA社の梅田支店で面接。給料を提示されると固定給や手当だけで15万円ほどだったかなぁ。残業代は別。靴屋が9万円の手取りでしたから私にとって15万円は破格でした。面接後、2、3日して採用の連絡がありました。私は『やっと社会人になれた。』という思いで一杯でした。世間からサラ金と言われようが福利厚生もあり給料も高く外出することは殆どない。雨の日も風の日も暑い日も寒い日も室内にいてスーツを着て仕事が出来る。
高卒の俺が?と。昭和56年1月。新店舗要員として天満橋支店に配属されました。残業は朝のティッシュ配布のみ。新店舗ですから督促も少なく残業で残る事もありません。毎日定時で帰宅。だから店長の奢りで梅田へもよく飲みに連れていってくれました。『別に普通の会社やん。』私は、その会社で店長を目指すことにしたのです。が•••
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