しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <傷のない雄>

2024-04-23 | レビ記
「あなたがたが受け入れられるには、それは牛、羊、あるいはやぎのうちの、傷のない雄でなければならない。」(レビ記22:19新改訳)

イスラエル人がささげる物は傷のない全きものでなければならなかった。この章に「わたしは・・・主である」とのことばが九回もくりかえされているが、主がささげものについてどんなに厳格(げんかく)さを求めておられるかがわかる。▼もちろん私たち新約の信仰者たちは、モーセ律法からは自由にされているが、キリストによる愛の律法の下にある。そこでは、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」(ローマ12:1同)と規定(きてい)されており、むしろ旧約よりずっと真剣で完全な献げもの、つまり全き献身を求められているのだ。▼それゆえ、キリスト者は「心にイエスの血が振りかけられて、邪悪(じゃあく)な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心(まごころ)から神に近づこうではありませんか」(ヘブル10:22同)とすすめられているのである。

朝の露 <傷跡を持つ大祭司>

2024-04-22 | レビ記
「ただし、垂れ幕のところに行ってはならない。祭壇に近寄ってはならない。身に欠陥があるからである。彼はわたしの聖所を汚してはならない。身に欠陥があるからである。」(レビ記21:23新改訳)

神にもっぱら祭司として仕えるアロン一族は特別に完全性を求められた。からだに少しでも傷や不完全性のある者は、聖所における奉仕をしてはならなかったのである。▼だが、旧約の祭司と新約の祭司はあきらかにちがっている。すなわち、私たちの大祭司イエス・キリストは復活されたあとでも、そのおからだに傷をもっておられる。頭には茨の冠による傷があり、両手には釘に刺し貫かれた跡、脇腹には槍で刺された傷があったにちがいない。また背中にはするどいトゲのムチで打たれた傷があったのではなかろうか。おお、私たちの大祭司イエスは復活されたあとでも、全身傷だらけのお姿なのだ。▼旧約の大祭司は身に傷ひとつない完璧(かんぺき)な体での奉仕を求められた。しかしイエスは「永遠の愛」という完全なからだで務めを果たしておられることを忘れてはならない。「また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。」(黙示録5:6同)

朝の露 <男がもし男と寝たなら>

2024-04-18 | レビ記
「男がもし女と寝るように男と寝たなら、二人は忌み嫌うべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。」(レビ記20:13新改訳)

人間の歴史を通して、同性愛という忌まわしい行為、習慣がなくなったことは一度もなかった。それは今日も世界各地で行われている。とはいえ、創造のはじめに、「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された」(創世記1:27同)とあり、「男でもなく女でもない人を創造された」とは、聖書のどこにも記されていない。従って、自分が男か女かよくわからないという心理は、悪意ではないかもしれないが、一種の混乱から生じている、と私は思う。その人が救われ、癒されたいと願うなら、神はかならずあわれんでくださるであろう。▼私たちは自分が神の栄光を現わすために創造された、という事実を喜びと感謝をもって受ける時、男女の区別なく、豊かで自由な生涯を生きることができる。イエス・キリストを信じ、御国への道をまっすぐ歩ませていただきたい。

朝の露 <禁断のもの>

2024-04-17 | レビ記
「あなたがたが、かの地に入り、どんな果樹を植えても、その実はまだ禁断のものと見なさなければならない。三年の間、それはあなたがたにとっても禁断のものであり、食べてはならない。」(レビ記19:23新改訳)

創造主なる天の父は、植物に対してもじつに思いやり深いお方である(→23~25)。私たちは果樹を植え、実が成ると何も考えずに、さっさと取って食べる。だが植えてから三年間はそっといたわり育て、四年目にはじめて神への供えものとしてもよくなり、五年目になると、ようやく人が食べられる状態になるのだ。▼現代人がこのような育て方を知っていたら、さぞ健康で無理のない果物や野菜ができるだろう、と思う。もうけるため、収益を上げるため、なにもかもそこに集中した栽培は、植物にとって地獄の苦しみかもしれない。にわとりや牛馬にとっても、聖書を無視した飼育は病気や不健康な生産に直結している気がする。▼生きとし生けるものすべてがあたたかい環境で共生していく地球、それは主キリストの再臨により、はじめてもたらされると聖書はいう。「荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び踊り、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、歓喜して歌う。これに、レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光が授けられるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。・・・荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。焼けた地は沢となり、潤いのない地は水の湧くところとなり、ジャッカルが伏したねぐらは葦やパピルスの茂みとなる。」(イザヤ35:1~7同)

朝の露 <忌まわしい風習>

2024-04-16 | レビ記
「あなたがたは、自分たちが住んでいたエジプトの地の風習をまねてはならない。また、わたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地の風習をまねてはならない。彼らの掟(おきて)に従って歩んではならない。」(レビ記18:3新改訳)

ここには、当時のエジプトやカナンで行われていた忌(い)まわしい風習が列挙されている。近親相姦、獣姦、同性愛、人身御供(ひとみごくう)など目をそむけたくなる不道徳行為の一覧表(いちらんひょう)であり、神はイスラエルに対し、これらの行為、風習をきびしく禁じられたのであった。しかし、恐ろしい事実は、ここに記された罪深い風習が現代でも世界各地で行われていることである。▼神は、「その地(約束の地)が、あなたがたを吐き出すことのないようにするためである」(28)と警告(けいこく)されたが、数百年後にはイスラエルもその風習に染(そ)まり、やがて約束の地から吐き出されてしまった。つまり、十字架のあがないにより、罪の力から真に自由にされていなければ、選民といえどもきよい道を歩むことはできなかったのである。私たちは新約におけるキリストの福音がどんなにすばらしいかを、深く心にきざみつけるべきなのだ。