「あなたは天幕の入口のために、青、紫、緋色(ひいろ)の撚り糸(よりいと)、それに撚り糸で織(お)った亜麻布(あまぬの)を用い、刺繍(ししゅう)を施(ほどこ)して垂れ幕を作らなければならない。」(出エジプト記26:36新改訳)
会見の天幕には二枚の幕がたれ下がっていた。すなわち、会見の天幕に入る時くぐる入口の幕と、そこに入ったとき見る聖所と至聖所(しせいじょ)を分ける隔(へだ)ての幕というものである。どちらも、青、紫、緋色、白の四種類の糸で織られ、とても美しいものだったと思われる。これは罪なきナザレのイエスの気高(けだか)さを象徴したものといえよう。▼もし祭司が幕屋内部に入り、天井を見上げればケルビムが刺繍された綾織(あやお)りの光景をみることができた。そのように、人の子の身は地上にあられたが、霊的には第三の天が開かれ、至愛の父の周囲を「聖なるかな、聖なるかな」と叫んで飛翔(ひしょう)する御使いの姿が見えたであろう。つまり、イエス・キリストは天上と地上の二つの世界を同時に生きられたお方である。▼ニコデモは主から「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です」(ヨハネ3:13同)と言われたが、なんのことか理解できなかった。もしできたら、おどろきのあまり腰をぬかしていたろう。またローマ兵たちは主をムチで打ったあと、いばらの冠(かんむり)をかぶらせ、葦(あし)の棒であたまをたたき、つばをペッと吐(は)きかけ、「ユダヤ人の王様、ばんざい」とからかって拝むマネをした(→マルコ15章)。第三の天におられ、み使いや全被造物が崇敬(すうけい)し、賛美してやまないひとり子の神を、人間はここまで侮辱(ぶじょく)し、あざわらった。そのはかり知れない罪と無知の重さを、よくよくかみしめるべきである。