しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <二枚の垂れ幕(たれまく)>

2024-02-20 | 出エジプト記
「あなたは天幕の入口のために、青、紫、緋色(ひいろ)の撚り糸(よりいと)、それに撚り糸で織(お)った亜麻布(あまぬの)を用い、刺繍(ししゅう)を施(ほどこ)して垂れ幕を作らなければならない。」(出エジプト記26:36新改訳)

会見の天幕には二枚の幕がたれ下がっていた。すなわち、会見の天幕に入る時くぐる入口の幕と、そこに入ったとき見る聖所と至聖所(しせいじょ)を分ける隔(へだ)ての幕というものである。どちらも、青、紫、緋色、白の四種類の糸で織られ、とても美しいものだったと思われる。これは罪なきナザレのイエスの気高(けだか)さを象徴したものといえよう。▼もし祭司が幕屋内部に入り、天井を見上げればケルビムが刺繍された綾織(あやお)りの光景をみることができた。そのように、人の子の身は地上にあられたが、霊的には第三の天が開かれ、至愛の父の周囲を「聖なるかな、聖なるかな」と叫んで飛翔(ひしょう)する御使いの姿が見えたであろう。つまり、イエス・キリストは天上と地上の二つの世界を同時に生きられたお方である。▼ニコデモは主から「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です」(ヨハネ3:13同)と言われたが、なんのことか理解できなかった。もしできたら、おどろきのあまり腰をぬかしていたろう。またローマ兵たちは主をムチで打ったあと、いばらの冠(かんむり)をかぶらせ、葦(あし)の棒であたまをたたき、つばをペッと吐(は)きかけ、「ユダヤ人の王様、ばんざい」とからかって拝むマネをした(→マルコ15章)。第三の天におられ、み使いや全被造物が崇敬(すうけい)し、賛美してやまないひとり子の神を、人間はここまで侮辱(ぶじょく)し、あざわらった。そのはかり知れない罪と無知の重さを、よくよくかみしめるべきである。

朝の露 <聖所(せいじょ)の造営(ぞうえい)>

2024-02-19 | 出エジプト記
「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。」(出エジプト記25:8新改訳)

神がモーセに律法を与えるとともに、聖所を設けるよう詳細(しょうさい)に指示されたのが、本章から31章までの記事である。▼聖所とは、神のおられる第三の天を模式的(もしきてき)に地上にあらわしたものといえよう。だが模式的といっても、その形、素材(そざい)、仕様書(しようが)きはすべて神が直接モーセに与え、教えたから、非常に奥深い意味があり、味わえば味わうほど霊的真理に心が深められていく。▼いっぽう、神のひとり子が地上に出現なさった時、ご自分のおからだを神殿と言われたことが記されている(ヨハネ二章)。つまり、主イエスによって新約の光が輝いたとき、モーセが山で示された聖所というものの本体は、じつはイエス・キリストご自身だったという事実があきらかになった。▼だからこそ、私たちは出エジプト記を読み、モーセの幕屋についての記事を味わうと、その真理が神のひとり子の栄光を示していることを発見し、言うに言えない深い感動をおぼえるのである。「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」(コロサイ2:3同)

朝の露 <十戒の石板>

2024-02-15 | 出エジプト記
「主はモーセに言われた。『山のわたしのところに上り、そこにとどまれ。わたしはあなたに石の板を授ける。それは、彼らを教えるために、わたしが書き記したおしえと命令である。』」(出エジプト記24:12新改訳)

イスラエル民族に律法の与えられるときが来た。それは神が直接、石の板に書き記したものである。まず準備として、モーセとアロンたち、それに長老七十人が、たぶん山の中腹までであろうが、上ることをゆるされ、そこで神ご自身を見て食事をした。おどろくべきことである。▼そのあと、人々はそこにとどまり、モーセひとりが山頂まで登り、四十日四十夜、神とともにいたのであった。だが人々はモーセが戻るまで待っていなさいと言われたのに待ちきれなくなり、山のふもとで金の子牛を作り、偶像礼拝と宴会(えんかい)を始めてしまったことが32章に記されている。人間の肉性は神を信じて待ち続けることができない。アブラハム夫妻もそれで失敗し、サウルも失敗して王位を追われた(Ⅰサムエル13章)。信仰の最大の戦いがここにあるといえよう。

朝の露 <偽りの告訴>

2024-02-14 | 出エジプト記
「偽(いつわ)りの告訴(こくそ)から遠く離れなければならない。咎(とが)のない者、正しい者を殺してはならない。わたしが悪者を正しいとすることはない。」(出エジプト記23:7新改訳)

この戒めを読むとき、だれでも主イエスの十字架刑を思い浮かべるのではないだろうか。当時の指導者たちは、ナザレのイエスが正しい方であることを知り抜いていた。それなのに、主を殺さなければならない、と決定したのである。その理由を一口にいえば、自分たちの権益擁護(けんえきようご)と主に対するねたみからであった。▼われわれこそ神に仕える義人であり、モーセ律法の実行者であると誇(ほこ)る指導者たちにとり、人々から敬愛され、預言者とあがめられる人物の存在は邪魔(じゃま)であり、排除(殺すこともふくめ)してしまおうと計画を立てたのである。それは彼らが、神に仕えることを標ぼうしつつ、自己の利益も保持したいと、ダブル・スタンダードを心に秘めていたからだ。偽善とはこのダブル・スタンダードに生きることにほかならない。▼神の子はすべてを知っていたので、「わざわいなるかな、偽善者たち」と非難された。正しい者を殺してはならない、という最大の律法を破った罪はこの上なく重く、まもなくエルサレム壊滅(かいめつ)とユダヤ人の世界離散(せかいりさん)という歴史になって現われた。「それは、義人アベルの血から、神殿と祭壇の間でおまえたちが殺した、バラキヤの子ザカリヤの血まで、地上で流される正しい人の血が、すべておまえたちに降りかかるようになるためだ。まことに、おまえたちに言う。これらの報いはすべて、この時代の上に降りかかる。」(マタイ23:35,36同)

朝の露 <やもめ、みなしご>

2024-02-13 | 出エジプト記
「やもめ、みなしごはみな、苦しめてはならない。もしも、あなたがたがその人たちを苦しめ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶことがあれば、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。」(出エジプト記22:22,23新改訳)

社会で弱い立場にある人々を、神がどんなに愛し、守っておられるかを示した聖句である。次の24節にも心を留めなければならない。すなわち、もし彼らが自分を圧迫(あっぱく)する人々を訴えて主に祈るなら、「わたしの怒りは燃え上がり、剣(つるぎ)によってあなたがたを殺す」と断言し、弱い者いじめと差別をきびしく禁じたのである。▼人は生まれながらにして「根深い差別心」を持つ。すなわち、あらゆる理屈をもって他者を見下げ、自分を人の上に置こうとするのだ。その典型(てんけい)がイエスを見下げ、さばき、十字架に追いやったパリサイ人たちであろう。もし私たちが神の国に入れていただきたいと願うなら、罪の本体である「高ぶりの性質」から自由にされていなければならす、それはキリストと共に十字架につけられることによって初めてもたらされる恵みなのである。