しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <きりで刺し通す>

2024-02-12 | 出エジプト記
「その主人は彼を神のもとに連れて行く。それから戸または門柱のところに連れて行き、きりで彼の耳を刺し通す。彼はいつまでも主人に仕えることができる。」(出エジプト記21:6新改訳)

奴隷が七年間の働きを終えて解放されるとき、「私はご主人様のもとにいつまでもいたい」と言えば、きりで耳を刺し通される必要があった。その後、彼はいつまでも主人に仕えることができたのである。▼昔の奴隷制度は一見むごい制度のように見えるが、根本には愛と信頼の関係があったことがわかる。思えば私たちキリスト者と救い主イエスの関係も、奴隷と主人の関係とはいえ、同時に真の愛が両者をつらぬいている。なぜなら主は十字架上で、罪の奴隷だった私たちのために死の苦しみをお受けになられた。しかもたんなる死ではなく、永遠の刑罰とのろいをすべて代わりに飲み干してくださったからである。▼その愛の深さを味わうほど、主から離れられなくなる。キリストは私たちのため両手と脇腹(わきばら)に刺し傷を受けられたが、私たちも心の耳を御霊のきりで刺し通され、愛の奴隷となった。

朝の露 <奴隷(どれい)の家から>

2024-02-08 | 出エジプト記
「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。」(出エジプト記20:2新改訳)

救われる前の私たちは、例外なく奴隷だった。何の奴隷か?といえば、罪と悪魔の奴隷、加えて「滅びの奴隷」である。▼この世の空しい栄耀栄華(えいようえいが)にあこがれ、欲望の充足(じゅうそく)を求め、罪を罪とも思わず、それにふけっていた。そして何を得たかというなら、自分のからだを傷つけ痛め、人間関係を破壊(はかい)し、争いや憎しみの結果だけを刈り取っていた。だから主は、自分の過去がどんなにみじめで希望のないものであったかをいつも思い出し、忘れないようにしなさい、と言われるのである。つまり「エジプトの地、奴隷の家から」とはそのことを指している。▼しかし、出エジプトした民はいつのまにかそれを忘れ、エジプトでの生活が、さも楽しみに満ちていたかのように錯覚(さっかく)して、不平不満を神にぶちまけた。これは悪魔がイスラエルの子らをそのように誘惑したからであった。われらキリスト者は「わたしはあなたを奴隷の家から導き出した神である」とのお声がいつも心に聞こえる生活をする、それを忘れてはならない。

朝の露 <シナイ山の頂に>

2024-02-07 | 出エジプト記
「主はシナイ山の頂に降りて来られた。主がモーセを山の頂に呼ばれたので、モーセは登って行った。」(出エジプト記19:20新改訳)

創造主なる神は、イスラエルと会見するためシナイ山に降りて来られた。人類史上、このような経験をした民族はイスラエル以外にない。エデンの園を出されて以来、神と対面したのはこのときのイスラエルがはじめてであった。▼その光景があまりにも荘厳だったので、民は立ちすくんで震えあがった(16)。ヘブル書も記している。「そのことばのとどろきを聞いた者たちは、それ以上一言も自分たちに語らないでくださいと懇願しました。・・またその光景があまりに恐ろしかったので、モーセは『私は怖くて震える』と言いました。」(ヘブル12:19~21同)▼イエス・キリストの血潮なしに神にお会いするとはこのようなことである。人はもし、十字架の救いを受けずに神の前に立つとすれば、永遠の火に落ちるしかないことがよくわかる。だからキリストによって罪がゆるされ、新しく生まれ変わっていることが、再臨の日を迎える絶対条件なのである。


朝の露 <イテロの提案>

2024-02-06 | 出エジプト記
「もし、あなたがこのことを行い、神があなたにそのように命じるなら、あなたも立ち続けることができ、この民もみな、平安のうちに自分のところに帰ることができるでしょう。」(出エジプト記18:23新改訳)

モーセのしゅうとイテロは、モーセが終日裁きの座に就き、民に神の御心を教えているのを見て心配し、ピラミッド型の支配体制を提案したので、モーセはそれに従った。つまり千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長というように、負担を分散することにしたのである。▼しかし、大祭司・主イエスはどうであろうか。この二千年、イエス様は父の右にあり、とりなしのわざに努めておられる。それを誰かにゆだねて、ご自分の重荷を軽くしようとはなさらない。地上の教会と無数の信仰者たちの訴えや懇願(こんがん)は、一瞬も途切(とぎ)れることなく、主のみもとに上り続けている。それはどれほど重く、たいへんな座であろうか。復活された御子のお働きは今も休むことなく続いていることを思えば、私たちの地上における労はなきにひとしい。それを深く心にとめたい。▼「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」(ヘブル7:25同)

朝の露 <アドナイ・ニシ>

2024-02-05 | 出エジプト記
「モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、そして言った。『主の御座の上にある手。主は代々にわたりアマレクと戦われる。』」(出エジプト記17:15,16新改訳)
ここに出て来るアマレクとの戦いは激戦だったが、ヨシュアはついに勝利した。原因は丘の上でモーセが終日、手を上げ続けたからである。▼これとおなじように、イエス・キリストは大祭司として父の右の座に着き、二千年にわたって地上にいるキリスト者のため、手を上げ続けておられる。世界の教会が悪魔のはげしい攻撃にもかかわらず、今まで存続してこられたのは、主の御手が上がっていたからだ。▼さらにいうと、アロンとフルがモーセの手を両側で支えたのは、御霊の助けを得て教会が地上で祈り続けていることに相当し、それが大祭司イエスの御手を支えているのである。私たちは現在、目に見えない世界で暗やみの勢力と白兵戦(はくへいせん)を戦っているのと変わらない。食うか食われるかという戦闘なのだ。主イエスのとりなしを思い、私たちもすべてをささげてこの戦いに加わろう。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇(くらやみ)の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:12同)