しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に <でも、おことばですので>

2024-04-14 | みことば静想
「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」(ルカ5:5新改訳)

このときペテロは漁師として落胆のどん底だったろう。経験積んだ漁師が一晩中網を打ったのに、一匹の魚もかからなかったからである。そのとき主イエスが、「深みに漕ぎ出して網を下ろしなさい」と命じられたことは、彼をさらに落胆させたにちがいない。ふつう、魚は深みにはいない。経験からよくわかっている。だが先生イエスは深みで網を下ろせと言われた。ある意味、ペテロは困惑したかもしれない。▼しかし、なにかしら抗しがたい力のようなものを主の御言葉に感じ、ペテロは網を下ろしてみた。「そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった」(ルカ5:6同)のであった。このことからわかるのは、「主のおことばに従うことが、生きた信仰」だということである。周囲の状況、長年にわたる自己の経験、知識などがどのように「反対の旗を上げても」、「主よ、あなたのおことばですから、従います」と答え、そのように行動することが信仰なのであり、それに応えるかたちで主の栄光は現れるのだ。▼このときは主の公生涯の初期で、ペテロはまだ深いことは理解できなかったと思われる。しかし、本人も期せずして取った信仰の行動により、奇蹟はおきたのであった。私たちも、「主が語られた」と確信したときは、感情や感覚、経験などにかかわらず、おことばにしたがうべきである。「見ゆるところによらずして、信仰によりて歩むべし。何をも見ず、また聞かずとも、神の御約束に立ち、歩めよ、信仰により、歩め、歩め、疑わで(ず)。歩めよ、信仰により、見ゆるところにはよらで。」(新聖歌282)