「また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことについては、あなたがたが証人であり、神もまた証人です。」(Ⅰテサロニケ2:10新改訳)
使徒パウロの宣教は、現代における私たち牧師が恥ずかしくなるほど、自己犠牲(じこぎせい)の精神に満ちていた。▼一例をあげれば、回心して教会員となった人たちから謝礼を受け取って当然なのに、パウロは決してそうしないで「昼も夜も自活しながら」伝道したのだ。また、父親が愛する子どもに向かうように、どんなことも耐え忍び、やさしく教えさとすように福音を伝えたのであった。▼ユダヤ人とギリシア人では言葉も風俗(ふうぞく)、習慣もまったくちがう。想像をこえた困難のなかで、福音の真理を説き明かすことには、気が遠くなるような忍耐が必要だったことだろう。そのすべてが、ほろび行く人々をなんとしても救い出したい、との神の愛から出ていたのであった。▼私たちもひとりの人が救われ、永遠のいのちにあずかるためなら、おしげもなくすべてを投げ出す者でありたい。涙とともに種を蒔(ま)く人だけが御国で大いなる喜びにあずかるのだから。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。種入れを抱え、泣きながら出て行く者は、束を抱え、喜び叫びながら帰って来る。」(詩篇126:5,6同)