「彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。」(ローマ4:19新改訳)
信仰とは、目に見える現実から目をそらすことではない。むしろ、自分の肉眼に見える状態をありのまま直視(ちょくし)し、じっと見つめることである。しかし、神のことばを常にその上位に置くことだ。▼アブラハムは百歳、妻サラは九十歳になろうとしていたとき、自分たちの姿を穴があくほど見つめたことであろう。その老体で子を産むことなどできるはずもない、その事実をよくよく認識(にんしき)したのだった。しかし、全能の神は、「あなたたちから約束の子が生まれる」と何度もくりかえし仰せられたのであった。現実と神のことばが同じ方向にあるなら、問題はなく、信仰はいらない。しかし両者はまったく正反対だった。では、どうしたらよいのか?▼アブラハムは神のおことばとその約束に立ったのである。死んだも同然の私たち夫婦のからだ、世間と医学の常識からするなら、およそ不可能なことを神は言われる、しかし万物の創造主、本源である方がそういわれる以上、事はかならず、まちがいなく実現するにちがいない、アブラハムは固くその真実性を信じたのだ。これが信仰なのである。▼いうまでもなく私たちキリスト者は霊的に「アブラハムの子」であり、その道にならう者である。だから私たちもアブラハムの真似(まね)をしなければならない。復活の道を歩むとはまさにそれだから。「アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。こういうわけで、一人の、しかも死んだも同然の人から、天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多くの子孫が生まれたのです。」(ヘブル11:11、12同)