しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に <アブラハムの信仰>

2024-10-27 | みことば静想
「アブラハムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」(創世記15:6新改訳)

①主に任せよ 汝が身を 主は喜び助けまさん 忍びて春を待て
 雪は解けて花は咲かん 嵐にも闇にも ただ任せよ汝が身を
②主に任せよ 汝が身を 主は喜び助けまさん 悩みは強くとも
 み恵みには勝つを得じ まことなる主の手に ただ任せよ汝が身を
                                  <新聖歌298 詞:Friedrich Rader,1845>
この賛美は私の愛唱歌である。これまで幾度となくくりかえして歌って来た。理由は、信仰の純粋性がよく表れていると思うからだ。▼冒頭の聖句は、70歳をとうに越え、世継ぎが生まれないアブラハムに神が語りかけ、それを信じた彼を神が義と認められたことを示している。「アブラハムは主を信じた」という箇所は、ある解説によれば、「アブラハムは神にすべてを任せた」という意味にとれるそうである。信仰とは、神に自分のすべてをお任せすることだ、そう考えると非常にうれしく、一切の重荷が肩から下りるような気がするが、いかがであろう。▼アブラハムの場合、神のことばにしたがい、待ちに待って来年は百歳という年齢になっても「約束の子」は一向に生まれる気配がなかった。それでも待てというのか?彼でなくても、普通人ならとっくの昔にあきらめ、別の手段で一家の世継ぎをこしらえていたであろう。ところが、アブラハムは「神にすべてをお任せした」のである。そして聖書はこれがほんとうの信仰なのだ、と我々に告げる。▼私たちの人生に、思い通り事が運ぶ例はひじょうに少ない。それでも願いがかなうことが、まれにあれば、まだいい。しかしアブラハムの場合は可能性がゼロと言ってよかったのだ。たったひとつだけ、ちがっていたのは、自分に語りかける神のおことばが現実と正反対を約束していたことであった。そしてアブラハムはそのおことばに「すべてをお任せした」のであった。▼信仰により歩むことは、このアブラハムの足跡について行くことである。「こうして、肉体的には死人も同様であったひとりの人から、天の星の数ほど、また海べのおびただしい砂のように数えきれないほど多くの子孫が生まれ出たのです。」(ヘブル11:12詳訳聖書)