しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

聖日の朝に <ゲッセマネとゴルゴタ>

2024-03-03 | みことば静想
「そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒(いっしょ)に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。』それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。」(マルコ14:33~35新改訳)

全知全能(ぜんちぜんのう)の神である主イエスは、ゲッセマネにおいて地面にひれ伏し、涙と血のような汗を流しつつ祈られた。そもそもアダムが罪を犯したとき、神は「大地は、あなたのゆえにのろわれる」(創世記3:17同)と仰せられたが、御子はその大地にひれ伏して天の父に祈られたのであった。これはイエス・キリストが私たち全人類の上に下された罪の結果とのろいを一身に負い、のろわれる者になったことを意味している。契約(けいやく)の箱のふた、贖罪所(しょくざいしょ)はゲッセマネの予表というべきである。▼すべての人類が地上で犯した罪の全体は、想像もできないほど重いであろう。もし罪ある私たちが、それを負うなら、一瞬(いっしゅん)のうちに焼かれてなくなるにちがいない。ただひとり、罪を犯したことのない完全な御子だけが負い、神の激しい怒りとのろいを最後の一滴まで飲み干し味わうことができた。その意味で、御子の苦しみの頂点はゴルゴタとゲッセマネにあったし、それは会見の天幕の贖罪所(しょくざいしょ:へだての幕の奥、至聖所にあった契約の箱、その上面のフタのこと)によって予告されていた場所でもあった。今日も聖餐式と礼拝で、ここに行き、ひざまずこう。