いるかくらぶで開催されているいるか広場では
ヨーガをベースとした日常のあり方などを紹介していただき、
「心」や「私」のエッセンスに触れながら共に学んでいます。
いるか広場で話し合ったテーマをご紹介します。
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テーマ(執着することと関心があることの違い)
いるか広場(2008年4月28日11時より)
似ているけれど本質は違う・・・ということはたくさんあります
例えば“無理をすることとがんばること”
“無理しないことと怠けること”
“無駄遣いすることと投資すること”
などなど挙げればきりがないでしょう。
その中で今回テーマに選んだのは
“執着することと関心があることの違い・
執着がないことと無関心なことの違い”です。
執着はあらゆる場面で顔を出すことなので
絞るのはとても難しいのですが、
今回は私にとって身近であるということと、
とても印象に残っているという点で
田原先生から聞いたお話を例に挙げたいと思います。
田原先生が各地の保育所などにベビーヒーリングタッチの講習で行かれる中で、最近とても危機感を感じているという話しを先日されていました。
それは新生児の頃から預けているため保育所にまかせっきりで他人事のように冷めている母親や、子どもを抱え込んで放すことが出来ずその為子どもも母親から放れることが出来ないという両極端なケースが増えている気がするというお話しでした。
この2ケースは典型的で、前者が子供に執着していないのではなく
まったくの無関心になってしまっている例、
後者は関心があるのを通り越して子どもに執着している例だと思います。
では何故このように子どもへの執着や無関心が始まるのでしょうか?
彼女たちの中に子どもに執着してしまうまたは
無関心になる要因が何かあるのではないでしょうか?
なぜなら何の要因もないのに子どもが産まれた瞬間に
執着や無関心が突然始まるとはとても考えにくいと思うのです。
ですから彼女たちには少しでも早くそのことに気づき、
前々回に「本当の自分を知ること」で書いたように
原因を探り・紐解き・自分の中に答えを見つけてほしいと心から願うばかりです。
この2例を読んで「そんな極端な!私は大丈夫やわ!」と思われた方、
いやいやほんとに大丈夫ですか?
少し思い出してみて下さい。“私が”嫌やから子どもに~させない、
“私が”こうしてほしいから子どもに~させる、ということありませんか?
これは子どもに対してだけではないかもしれませんが・・・
よく「あなたの為を思って」という言葉を聞くことがあります。
この場合の殆どは言った人の何かに対する執着ではないかと私は思うのです。
このようにえらそうに書き進めてきましたが、
私もまだまだ執着が無くせたわけではありません。
ただそのつど執着を持った自分に気付くことはできていると思います。
気付いた上でそんな自分を許すときもあれば、
この執着は捨てよう!と思うときもあります。
こうやって少しずつ執着を少なくしていければ、と思っています。
そして私の今一番の関心事である子どもに対して
大いに関心を持って見つめ、時には手を出さずに見守り時には助け、
一緒に育っていければと思っています。
<今回のまとめ>
* 幼稚園の選択について
ここへ行かせたい!と思うことは執着なのか、関心なのか?
どこまでが執着でどこまでが関心なのかが難しい・・・
→ どこが良いのか調べるのは大事だと思う。ただ吟味する段階で
親のエゴではなく子を中心に吟味できているかが大事では?
* どこへ行ったとしても起きる事はその人に必要だから起きるのでは?
何かが起きたときに、また自分で立ち上がれる子になってほしい。
* 幼稚園でも他の場所でもその環境が嫌なとき、その環境を批判するのは
簡単だが批判するのではなく自分がよい環境を選ぶ努力をしたいと思う。
* 人それぞれだから色々な選択があってもいいし、楽しければいいのでは?
その時その時一生懸命子のことを思って決めて、本当のことを話せば
子には伝わるのではないか?
* 執着もある程度必要ではないか?執着があるから目標になり達成できるし、
がんばれるのでは?
→ そこに自己愛による執着がはいると色合いが変わってくる
* 育児をして自由に動けなくなったことで、かえって自分を見つめなおすことができバランスがとれるようになった。
今この時を楽しめるようになった。
* 執着・無関心とはなにか?
→ 執着は自己愛・無関心は愛がないのでは?
* 自分のやるべきことはきっちりする。それから次のこと。
出来なかったことにこだわらず、1日1日今を生きることが大切。
これが執着かどうかをあんまり考えすぎることなく、軽やかに対処できる
よう考えるほうがよい。