明日を夢見て~神様と筋ジストロフィーと共に生きる~

クリスチャン。デュシェンヌ型筋ジストロフィー患者で電動車椅子と人工呼吸器を使っている。

神様の大きな愛の御手

2011年02月28日 14時44分57秒 | キリスト教
今日の礼拝で感じたことがある。

僕たちクリスチャンは神様の大きな愛の御手から決して逃れることはできないんだよね。

この地球・宇宙は神様の手中に収められている。だからどこに逃げても、どこで迷っても、神様がすぐ捕まえて下さる。

人間は自分の力ではどうしようもない状況に置かれたとき、素直に「助けて下さい」と祈ることで、神様の慰めを心から体感することができるのだろうなぁ。

たぶん苦難とは、神様と接触するための「痛み」なのかもしれない。なぜなら人間は「痛み」を通じて、愛の人格を創り上げていく側面もあるのだから。

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「聖書の言葉は、私たち人間が、それがたといどんな人であってもどんな状況にいたとしても、生きていてよかったという喜びのうちに導く力を持っています」【吉田隆 牧師】

「人間にとっての真の救いとは、命を与えてくださった神のもとへと帰ることです。人の心は神のうちに安らうまでは決して安んじないからです」【吉田隆 牧師】

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祈りが僕を神様のもとへと導いてくれる。そして神様の愛の御手の中で安らぐことができるんだね。

僕の生命は僕のものではなく、神様のものなんだ。だから神様の御心に従うならば、自分にとって一番最善の道を歩むことができるんだよ。

神様の慰めを体感したとき、生きていて良かったと思えるようになり、人生が喜びに変わるのだなぁ。

今日、障がい児の中絶問題に関する本を読んだ。

着床前診断で胎児の染色体や遺伝子の異常を発見することができるんだけど、それが見つかると障がい児になる可能性が高くなるから、胎児に異常があると中絶する妊婦が増えているらしい。

やっぱり障がい者は手間のかかる不幸な存在だという考えがあるから、中絶してしまうんじゃないかな?

(でもこの着床前診断が100%正しいとは限らないんだよ。医療技術だって間違えるときもあるからね。)

だとしたら、僕が難病の自分を卑下して生きていけば、こういった考えを助長することになる。僕は生まれて来なければ良かった存在になってしまう。

でも僕が難病の人生を喜びに満ち溢れて生きていけば、中絶することを思いとどまらせることにつながるはずだ。そうなると未来の子供に生まれてくる可能性を与えることになる。

自分のために生きるな。隣人のために生きていくことが、自分のためになるんだ。

僕はすでに神様から永遠の愛を頂いている。だからこそ隣人にも愛をプレゼントしていけるんだよね。

とこんなことを思った。
やっぱり礼拝の時間は大事なんだなぁ。

【ヨハネによる福音書11章4節】

この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。

♪今日のBGM♪

本当に人間は未完成だよね。だからこそお互いの足りないものを補い合うんだ。

*JUST ONE/DEEN

そっと今 灯をともそう
ふたりで歩いて行く道に
碧い風 夜の埠頭
手のぬくもり 確かめてみる

君と巡り会うため
孤独を彷徨ってたと
今は思えるから 僕の心よ
臆病になるな 振り向くな

君を忘れない 忘れたくない
ずっとこのままで
愛してるって言葉も
きっと素直に言える 今日からは

目をとじ 振り返ろう
ひとりで歩いてきた道を
周りも見ずに 自分の力だけを
信じて生きてきた

君の駆けてく姿に
遠い未来のふたりが重なって見えた
涙こぼれぬように 星空を見上げたよ

僕は忘れない この瞬間を
胸に吸い込もう
ふりむく君を強く抱いた
かけがえないもの 見つけたんだ

人間は誰もが未完成だね
足りないから求め合う
Just one… for me, for you

君を忘れない 忘れたくない
ずっとこのままで
愛してるって言葉も
きっと素直に言える 今日からは

永遠のキスを交わそうよ

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いじめ

2011年02月28日 14時43分47秒 | エッセイ
かなりの長文日記です。

改めて「十字架/重松清」を読んで、いじめについて考えてみた。

「いじめはよくない。いじめはダメだ」と言うだけじゃ伝わらないと思う。分かっていたらいじめなんてしないからね。

いじめの傷を受けたら、人間がどうなるかということを教えるべきだよ。時にいじめは人を死に追い込む。人を物扱いすることがどれだけ人間性を破壊するのか、分からせる努力が必要だと思う。

そして1人が自殺したら、周囲の人々がどれだけ苦しむか、何十年もその重荷を背負うことになるのか、も学んだほうが良い。

いじめる側はそんなことを全く考えない。ただ自分の気持ちをいじめることで満たしたいだけじゃないのかな。もちろんいじめる側にも家庭問題などで心を痛めている人もいるから、そのことも考えないといけないけど。

またいじめられる側にも教えることがあるはずだ。「宙船/TOKIO」という曲に「おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな」という歌詞がある。

いじめられて自殺するということは、いじめる側に自分の心を委ねたってことだと思うんだよね。自分が死んで喜ぶ人に自分の心を委ねたらいけないよ。

今は直接の暴力や嫌がらせのいじめではなく、メールや学校裏サイトなどネット上でのいじめが流行っているみたいだね。

要するに言葉の暴力。確かにナイフのような言葉を言われたら傷付くよ。悲しいよ。

でもそういう人って言葉でしかいじめることができないと思うんだよね。特にネット上なら顔を見ていじめることができない臆病者だ。

こういういじめる人間の言葉なんて聞く価値もないと思う。もちろん言葉の暴力は辛いけど、なるべく気にしないで欲しい。

そういえば小学3年生の頃の自分って自殺したいと思っていたんだっけ。理由は学校で集団いじめを受けていたし、ちょうど同じ時期に持病の悪化で一生歩けない体になったから。

日に日にいじめる人間が増えていく。なぜなら僕のことをかばうと、そのかばった人もいじめの標的にされるから。だからかばう人なんていなかった。もしくは見ず知らずで何もしてくれない。いじめの理由は僕の足が悪いという単純なものだ。

僕の場合のいじめは、直接の嫌がらせと言葉の暴力だった。まぁ血を流す暴力がない分だけましだったけれど。

そして誰も自分の存在を認めてくれない⇒生きていても意味がない、と思った。なぜなら友人はいなかったし、教師は相手にしてくれなかった。 また親には自殺したいなんて言いたくなかった。

いま振り返れば、勇気を出して親に言ったほうが良かったんだよね。いくら親が心配しても、子供が「大丈夫だよ。楽しく学校で過ごしているしね」と言えば、親は子供を信じるしかないから。。

ただ個人的に教師は当てにならないと思う。仕事で忙しく、いじめを調べる時間なんてないからね。でも僕の当時の担任や学年の教師が相手にしなかっただけで、中には守ってくれる教師もいると思うけど。

鷲田清一さんの著書に「自殺とはアイデンティティの確立である」という言葉がある。確かに僕の場合は、自殺することで自分が生きていた証を人々の心に残したいという気持ちがあったんだろうなぁ。

ではなぜ自殺を思い止まったのかと言うと、親を悲しませたくはなかったから。また同じ時期に「自分だけが不幸だと思ってはならない。そうなると自分に出会う全ての人が不幸になる」という三浦綾子の言葉に救われたことも影響している。

自殺をしたら必ず悲しむ人がいる。なぜなら人は自分の死より、身近な人の死によって、死というものを知るからだ。悲しむ人たちの存在に気付くこと、気付かせることが大事なんだよね。だから自殺したいと思っている人は素直に苦しみを伝えて欲しい。

人はよく孤独を感じるけど、生きている時点でひとりじゃないんだよね。だから周りを頼ることも必要だと思う。助けられたら、今度は自分が助ければ良いじゃないか。

自殺したいと思っている人が僕と同じに気持ちになるか分からないけど、少なくとも生きた証を残したいという思いはあるんじゃないかな?

でも自殺する人の近くに誰かがいれば全く違うよね。思いとどまるかもしれない。

ちなみに自殺する人に無理に言葉かけをしなくて良いと思う。かえって慰めの言葉が悪影響になることもあるし。ただそばにいてくれるだけで、手を握ってくれるだけで本人は嬉しいはずだから。誰にでも自分を肯定してくれる存在が必要だよ。

あくまでも僕が自殺したいと思ったときに感じたことなんだけどね。

やっぱり自分のことだけ見ていたら辛くなるよね。でも周りの人々のことを思えば、その辛さが緩和されていくはずだ。

僕は障害者。僕が「自分は不幸だ。こんな身体で生まれて来なければ良かった。神様が悪いんだ。人生なんて意味がない。苦しいだけだ」と常に思っていれば、全ての障害者がそういった目で捉えられる。僕が生きることから逃げれば、他の障害者を危険にさらす事になる。 

でも反対に障害を持っていても、希望を失くさないで輝いて生きていれば、「障害者は不幸だ」と思う人は少なくなる。 

僕は逃げてはいけない。僕の諦めない生き様が、日本中の障害者を守ることにつながるんだ。僕が戦わなくてはいけない敵は、ヒトラー達が信奉している優秀な人間を神とする優生学なのだから。

誰の命もまた誰かを輝かす為の光なのだと思う。これも隣人愛のひとつなのだろうね。隣人のために生きることで、大きな勇気をもらえる。たとえ自分の知らない人のことでも力を与えてくれる。

僕のいじめは約一年で終わった。なぜいじめを辞めたのか分からないけど、理由は僕をいじめる遊びに飽きたからかもしれない。

僕のいじめは血を流す暴力がないものだったけど、いじめられた人の気持ちは痛いほど経験した。やっぱり経験者の話が、いじめについて議論するときに必要不可欠なんだよね。

マスコミや教育評論家の議論を聞いても、現場を知らない希薄さ、軽率さを感じてしまう。

だから思い出すことは苦しいけど、いつかいじめ体験を話して欲しいと思う。みんなに考えさせることが大事なんだよな。

長くてごめんなさい。。

愛されるより愛していく

2011年02月25日 17時14分02秒 | キリスト教
♪BGM♪
糸/中島みゆき
「縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす布は いつか誰かの
傷をかばうかもしれない

縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に 出逢えることを
人は 仕合わせと呼びます」

人間には自分を肯定してくれる存在が必要なんだと思う。

反対に人間を物扱いする人は隣人の心を破壊するのだと思う。

昨日のつぶやきで書いたけど、気持ちを整理するため、もう一度繰り返してみる。

人はよく孤独を感じるけれど、生きている時点でひとりじゃないんだよね。必ず自分を支えてくれている人がいる。だから周りに頼ることも必要だと思う。

でも自分を肯定してほしいとばかり求めるのではなく、自分から隣人を肯定していく存在になりたいと思う。愛されるより、愛していきたい。

去年の夏から自分の親しい人や知人だけじゃなくて、苦手な人や地球上に住む知らない人々のために祈ることを始めてみた。そうすると祈りの時間が倍増したんだ。

そして長く祈るようになると、今までよりも神様の愛や聖霊に包まれた気持ちになることができたんだよね。

隣人のために祈るというほんの小さな行いをすることが、こんなに自分のためになるとは思わなかった。

やっぱり自分のために生きていたら、できないことや困難に直面すると自分を卑下してしまう。

でも隣人のために生きることで自分を肯定できるようになるんだなぁ。

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」

こういう人間になりたい。そして人が人に一番してもらいたいことって、愛されることだと思う。

でも人間の愛には限界があるし、よく愛に飢え渇く。僕はいつも愛が欠如している人間だと感じてしまう。でも神様から愛を頂けば良いんだよね。

だからイエス様は「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 

だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と言っておられるんじゃないかな。(解釈が正しくないかも)

神様の愛は無限だから、いつでも愛を与えてくださるんだよね。いや、すでに与えてくださっているんだ。

でも生きているだけで幸せだ、神様に愛されているだけで幸せだと、僕はまだはっきりと言えない。

本音を言えば、病気が治って、神学校に進み、献身の道に入りたい。嚥下障害が治って、普通食が食べたい。やっぱり自宅や病院だけで毎日を過ごし、社会的な役割が何も無いのは辛いんだよね。
とりあえずなるべく人と交わらないとな。。

「あなたに全生涯を捧げますから僕の病気を癒してください。献身の道に導いてください」と先月から本気で祈り始めました。

まだ僕は迷いの中にいる。もっと迷い続け、もっと祈り続ける時間が必要なんだ。

いつか迷いの雲が消え去り、光が見える日が訪れると信じている。そのとき、生きているだけで幸せだ、神様に愛されているだけで幸せだ、とはっきり言えるようになるはずだよ。

自分の願いに生きるのではなく、神様の御心に従いたい。

でも焦らないでいきたい。僕はまだ19歳なんだから。

ただ病気で苦しむことの意味はあるんだよね。痛みを経験することで、頭ではなく、身体で優しさや愛を学ぶことができるから。

自分のことだけ考えていたら痛みは辛いだけだけど、優しさや愛の面から考えると、隣人のためにつながるのだと思う。後は実践していきたいよ。

【ヨハネによる福音書4章14節】

わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。

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負けたら終わりじゃない。

2011年02月24日 12時29分19秒 | エッセイ
最近、「人間は負けたら終わりなのではない。辞めたら終わりなのだ」というニクソンの言葉が頭の中をめぐっている。

またこれと関連して、「旅人に尋ねてみた どこまで行くのかと いつになれば終えるのかと
旅人は答えた 終わりなどはないさ 終わらせることはできるけど」という「アゲハ蝶/ポルノグラフィティ」の歌詞も。

人生は旅だ。でも自分の手でいつでも終わらせることのできる旅だよね。

でも最後まで生き抜いていくことが大事なんだろうな。そして死を迎えたとき、自分が生まれて来た意味が分かるのだと思う。なぜなら意味は後からついてくるのだから。

だから途中で人間を辞めたくはない。人生を途中で終わらせたくはない。頂上に辿り着くことで見える世界があるからね。

僕は病気で、大学受験に二度も失敗し、中退した。またこれからも病気は悪化していくからきちんとした仕事はできないし、恋愛・結婚も不可能に近い。寿命も医学的には残り10数年だしね。これでは失敗ばかりの人生だ。世間からは負け組と言われても仕方ない。

でも負け組だって頑張っているんだよ。結果的には失敗したけど、少なくとも挑戦したのだから。負け組と馬鹿にすることが間違っているんだよ。

まぁ世間的な考えに基づくと、勝たなければ意味がないと言えばそうなるけれど。でも一度も負けない人生なんてあるのだろうか?

僕が学歴、出世、財力、恋愛、結婚、子育てなど世間的な価値を求めて生きていたら、ずっとマイナス思考に陥ってしまう。そうなると自分を人といつも比較して、自分を卑下してしまう。

僕には新たな生きる価値が必要だと思うんだよね。それは魂の昇華だ。精神的豊かさだ。これは普遍的な宗教が教えていること。

「高齢化とは高霊化である」と誰かが言っていたけれど、僕は10代からそれを実践しているのかもしれない。

こう考えると、人生は長さではなく質になるんだよね。たとえ若く死んでも、死ぬときに100歳の境地になれば何ら問題はない。

まぁ「あなたの考えは傲慢ですね。というより考えすぎなんですよ」とある人から忠告されたことがある。確かに客観的に見れば、19歳の癖に偉そうだし、老けた考えかもしれないなぁ。

世間的な価値を求めることは当たり前の考えだと思う。でもそれでは僕は納得できないんだよなぁ。やっぱり昨日できたことが今日できなくなる病気だから。もちろん今できることは楽しみたいよ。

でも月日を重ねるごとに、人間の生きる目的は魂の昇華なんだろうなと実感するようになってきた。みんないずれ死ぬし、死後の世界はあると信じているから。

今はっきりと言えることは、苦しみを乗り越えることで、人間は精神的に豊かになれるのだと思う。

とりあえず人は日々変わっていくから、その時に感じたことは書き留めていきたい。振り返ることも大事だと思う。

あくまでも僕の考えです。
考え方がひとりひとり違うから良いんだよね。

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自分が立っている所を深く掘れ。そこからきっと泉が湧きでる。【高山樗牛】

努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る。【井上靖】

「今が最悪の状態」と言える間は、 まだ最悪の状態ではない。
【ウィリアム・シェイクスピア】

人生は恐れなければ、とても素晴らしいものなんだよ。
人生に必要なもの。それは勇気と想像力、そして少しのお金だ。【チャーリー・チャップリン】

間違いを犯しても、深刻なものであっても、やり直す機会は必ずある。失敗とは転ぶことではなく、そのまま起きあがらないことなのです。【メアリー・ピックフォード】

われらの最大の栄光は、一度も失敗しないことではなく、倒れるごとに起きることにある。【オリバー・ゴールドスミス】

人生は、私たち一人一人が、それぞれの目を通して見ている映画です。 そこに何が起こっているのか、ということは大した違いはありません。 それをどのように受け取るかが重要なのです。【デニス・ウェイトリー】

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セントラル・ステーション

2011年02月20日 19時45分55秒 | 映画
今日は「セントラル・ステーション」というブラジル映画を観た。

代筆屋の中年女性と母に先立たれた少年が、共に少年の父親を探すために旅をする物語。現代のブラジルが抱える孤児や人身売買などの問題も扱っている。

僕はこの映画を観て、人は人の善意や優しさに触れたとき、悔い改めの心が生まれ、幸せの涙を流すのだなと感じた。

あとは血がつながっていなくても、心が通じ合えば、実の親子以上の関係になれるんだね。まさに関係(あい)という言葉がふさわしい。

善と悪、美と醜、優しさと冷たさ、これらが入り混じっているのが不完全な人間なんだろうな。

この中年女性は品行方正が悪くて、物語の最初では全く可愛くない人なんだよね。
でも少年と擬似的な母子関係を築き上げていくことで、変わっていく姿がいいなぁと思った。

あと物語の重要なシーンが代筆屋をキーワードにしている点が素晴らしい。自分の予想を良い意味で裏切る展開ばかりだったから面白かった。

あと二人の主人公の言葉遣いが悪いところも物語をより魅力的にしているなぁと思った。

最後のシーンは愛のあたたかさを感じたね。涙で物語が終わる王道パターンなんだけど泣けたよ。

♪今日のBGM♪

雨の日や眠れない夜に聴きたくなる曲。儚さがあるから美しさがあるんだよなぁ。

君 連れ去る時の訪れを/GARNET CROW

いつまでも届く筈ない虹を追いかけていた
あの日の僕ら無駄になること分かつ喜びに溺れ
一日中触れていたい気持ち隠せずにいた
時を止める様な長い雨の音 露の世を映すように

君を連れ去る時の訪れを
降り続く雨こんな日は想いを巡らす
どんな出会いも別れがあるから
心の奥で 幸福(しあわせ)畏れた…

なんとなく感じてる安らぎから突然
陷いる場所は胸の奥の方 未だ残る歪んだ瑕疵(きず)?

君を連れ去る時の訪れと
物憂げな空迷い込む世界は未知数
手を繋いだら二度と離れない そんな出会いがいい
願ってしまうよ

大切なモノ傍に在る方がいい
いつか 実体なくなる(ぼくらきえる)ならなおさら
与えられた期限(とき)を愛しいモノで埋め尽くすように
何処を切り取っても……

僕ら連れ去る時の訪れと
揺れる雨空 切ない 幻(ゆめ)をみせるようで
終わることない 関係(あい)を望むから
儚さに今 涙がこぼれる

君 連れ去る時の訪れを
いつか愛しく抱きしめることが出来るのかな
ねぇ 天(そら)をみて晴れ間がみえるね
虹がもうすぐ 架かる頃だよ



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