明日を夢見て~神様と筋ジストロフィーと共に生きる~

クリスチャン。デュシェンヌ型筋ジストロフィー患者で電動車椅子と人工呼吸器を使っている。

暑中見舞い

2011年06月30日 15時58分52秒 | 日常
昨日は「博多フレンドホーム」という福祉施設の「パソコン教室 暑中見舞いを作る」に参加して来た。
ワードでハガキを作るという簡単な内容でつまらなかったけど、忘れていた内容を思い出すことができたから良かった。

んで出来上がった作品がこれです。でも地味な作品だなぁ。



このセミのイラストが面白い♪
ちなみにこのセミは虫捕りの網とカゴを持っているけど、一体何を捕まえるつもりなのだろう? それにしてもセミが虫捕りって。(笑)

なんかPhotoshopやIllustratorなどを使って、画像編集の勉強もしてみたくなったなぁ☆

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静まりのリトリート 黙想 3

2011年06月29日 11時14分47秒 | キリスト教
静まりのリトリート 黙想 3

課題の聖書箇所【イザヤ書53章】

わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。

苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。

捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。

彼は不法を働かず その口に偽りもなかったのに その墓は神に逆らう者と共にされ 富める者と共に葬られた。

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。

彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。

それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。



イエス様は全人類の罪のために十字架で犠牲になった。ということは、自分の惨めさ小ささ弱さをとことん感じることによって、イエス様が与えて下さった救いを分かることができる。まさに自分の罪のためにイエス様は犠牲になって下さったのだから。

逆に言えば、自分の惨めさ小ささ弱さを感じることは悪いことじゃない。絶望的なことじゃない。むしろそのようなときにこそ、イエス様の救いを実感することができる。弱さの中にこそ、神様に委ねるという最高の強さが秘められている。

この世は楽しいこともあるけれど、それ以上に罪の悲惨に満ちている。イザヤはイスラエルの民に神様の御言葉を伝えるために、たくさんの苦しみを受けた。そしてイエス様はイザヤ以上の、僕らには想像もできないほどの、全人類の罪という苦しみを背負って下さった。やっぱり神様の御言葉を伝えるためには、苦しみが伴うのだと思う。

でもイエス様は全人類の罪を贖い、復活を通して、全ての罪に打ち勝って下さった。だからどのような苦しみを抱えていても、イエス様に背負うことのできない苦しみは存在しない。

神様から罪を赦されているといっても、この世の苦しい現実は変わらない。でもどれだけ苦しんでもイエス様に背負うことのできない苦しみはないのだから、大丈夫。苦しみの中で信仰・希望・愛が育まれていく。神様がそうして下さる。

たぶん神様は、人間がどのような行いをするかではなく、人間の存在そのものを愛して下さっている。イザヤ書の時代はイスラエルの民が偶像崇拝や自分の快楽のためだけに生きていた。また神様に従って安心するのではなく、アッシリアのような軍事大国と同盟を結ぶことで安心していた。民は神様から離れていた。

言ってしまえば、神様の怒りの対象になるようなことばかりしていた。でもそのようなイスラエルの民であっても、神様はイエス様を遣わし、イスラエルの民を救おうとした。

やっぱり人間は神様によって創造されたのだから、神様は人間の存在そのものを愛して下さっているのだと思う。イエス様が罪を贖って下さったのだから、僕らはもう生きることが赦されている。だからこそ、神様に立ち帰り、悔い改めて、神様に委ねていきたい。

また存在するだけの命も神様が与えて下さったものだと思う。僕はいずれ寝たきりになり、健康な人間から見れば、何もできないような人間に思われるときがくる。でも存在するだけの人生も神様が与えて下さる使命なのだと思う。最後まで命を使うことが使命なのだから。

この世は、行いがなければ評価されることはない。人間は存在するだけでは認められない。

でも神様は違う。人間の存在そのものを愛して下さっている。

そのような神様の愛に照らされて、人間は少しずつ変えられていく。そのような神様の愛を感じるからこそ、神様への感謝が生まれ、神様のために生きたい、神様の栄光をあらわしていきたいと思えるようになる。

全ての善いものは、神様の愛から生まれていくのだと思う。

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静まりのリトリート 黙想 2

2011年06月29日 11時11分00秒 | キリスト教
静まりのリトリート 黙想 2

課題の聖書箇所【イザヤ書55章】

渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め 価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。

なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い 飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば 良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。

耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。

見よ かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし 諸国民の指導者、統治者とした。

今、あなたは知らなかった国に呼びかける。あなたを知らなかった国は あなたのもとに馳せ参じるであろう。あなたの神である主 あなたに輝きを与えられる イスラエルの聖なる神のゆえに。

主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。

神に逆らう者はその道を離れ 悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば 豊かに赦してくださる。

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。

天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。

雨も雪も、ひとたび天から降れば むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ 種蒔く人には種を与え 食べる人には糧を与える。

そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。

あなたたちは喜び祝いながら出で立ち 平和のうちに導かれて行く。山と丘はあなたたちを迎え 歓声をあげて喜び歌い 野の木々も、手をたたく。

茨に代わって糸杉が おどろに代わってミルトスが生える。これは、主に対する記念となり、しるしとなる。それはとこしえに消し去られることがない。



悪を行う者とは神様から離れていく人。また神様から離れることで悪を犯してしまう。しかし神様に立ち帰り、神様に委ねる者は豊かに赦され、心の平安を得る。これこそが人間にとって真の幸せ。神様は悔い改めへと導いて下さる。

また人間の行為は神様を信じ、神様に委ねた後からついてくる。信仰より先に人間の行為があるのではない。

人間の思いと神様の思いは違う。ということは人間が願うことと神様が与えて下さることは違うときもある。神様が与えて下さることは、最初はむなしく感じるかもしれない。なぜなら人間の心は罪で覆われているから。

でも時がくれば、後から振り返れば、自分にとって真に必要なことだったと気付く。そして神様がなさったことを、自然と心の内から大いに喜び祝い、大いに感謝できるようになる。

初めから神様の御心が全て分かっていれば、たぶん人間は神様に感謝することはないと思う。また神様の恵みを感じることもないと思う。

後から振り返って、「あぁ、あの時の出来事は自分にとって欠かせないものだったのだなぁ」と気付くからこそ、神様の恵みを大いに実感し、神様への感謝が生まれていくはずだ。

黙想の中で思い浮かんだ御言葉。

【コヘレトの言葉 3章 1節】

何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

【コヘレトの言葉 3章 11節】

神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。


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静まりのリトリート 黙想 1

2011年06月29日 11時04分03秒 | キリスト教

今から三回に分けて、静まりのリトリートの黙想で感じたことをアップします。

黙想の中で羅列的にメモした文章なので、わかりづらいかもしれないですが、編集せずに載せます。

静まりのリトリート 黙想 1

課題の聖書箇所【ルカによる福音書 22章39~46節】

イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。

いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。

そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」

すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。

イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。

イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。

イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」



神の子であるイエス様もこの杯をわたしから取りのけてくださいと祈られた。

僕は生まれつきの難病を抱えている。病気を癒してくださいとずっと祈っている。時に病気の苦しみから逃れたいために、この命を奪ってくださいと祈ったこともある。

でもこういう祈りをしてもいいと思う。イエス様でさえも十字架の苦しみを取りのいてくださいと祈られたのだから。神様には救うことのできない人間の絶望はない。たとえ地獄にいるように感じる絶望でも、神様は救うことができる。

誘惑に陥って絶望してしまうより、絶望しながらも神様に苦しみを訴えたほうがいい。時に神様に対して怒りが生まれるかもしれない。でも怒りさえも神様にぶつけていいのだと思う。人間は弱い。信仰も揺らぐときがある。

でも信仰は神様が与えて下さるもの。だからどんなに苦しい祈りでも、どんなに暗い祈りでも、祈ることが大事だと思う。祈ることで変えられる。どう言い表してよいか分からない声や言葉にならない思いも、自分の内にいて下さる聖霊の執り成しによって、神様は聞いて下さる。神様の力を信じたい。

試練は神様が与えて下さったもの。だから試練の中で絶望しても、怒りをぶつけても、神様は乗り越える力を与えて下さる。なぜなら神様は乗り越えられない試練は与えないのだから。

神様が働いて下さる。神様のみ心が叶えられるように全てを導いて下さる。自分以上に、神様は自分のことを分かっていて下さる。

天使がイエス様を力づけたあとも、イエス様は苦しみもだえ、血が滴り落ちるほどに祈られた。お祈りしても、すぐには苦しい現実は変わらない。

でもイエス様は祈りによって、神様や天使が力づけたことを感じるなかで、心は平安で満たされたのだと思う。心の平安があれば、どんな苦しみも忍耐し、乗り越えていけるはずだ。祈りとは、人間に救いの確信を感じさせるものなんだよね。

絶望しても、死にたいと思っても、救って下さる神様を信じているのだから、悲しみの果てに苦しみの果てに祈らなくなり、眠りこけてしまうより、悲しみの果てに苦しみの果てにいても、神様に祈りたいと思う。なぜなら神様は人間の絶望より深い方なのだから。

黙想の中で、この御言葉が思い浮かんだ。

【ヘブライ人への手紙 2章17~18節】

それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。

事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

【コリントの信徒への手紙第二 2章4~7節】

神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。

キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。

わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。

あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。


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静まりのリトリート

2011年06月27日 17時38分49秒 | キリスト教
6/24~6/25に、僕が所属している日本キリスト改革派教会 西部中会の青年会 「静まりのリトリート」に参加するために、神戸にあるルーテル系の修道院「母の家 ベテル」へ行きました。

この二日間のリトリートでは、課題の聖書の御言葉を思い巡らせながら黙想(ディボーション)をしました。あとディボーションで感じたことをみんなと分かち合いました。

今までお祈りするときは、自分のほうから神様に語ってばかりいたんです。

でも今回のリトリートを通して、お祈りする時間というのは、神様との交わりを静かに楽しむ、何も語らず神様が語りかけて下さる声にじっと耳を傾ける、神様に応答する、ということも含まれることに気付きました。

今まで漠然としかイメージできなかったディボーションのことが少し分かりました。

ディボーションの時間というのは、こんなにも充実していて、心が平安で満たされる至福の時間だなと改めて実感しました!

僕にとってこのリトリートは、今までの祈りを神様の声を聞くことに集中できるように変えてくれた時でした。

たくさんの神様の恵みと慰めを感じました。しかも聖書箇所が僕の大好きなところだったので、涙が止まらなかった。

ちなみに今回のリトリートのディボーションで感じたことは、長文になるので、後ほどアップしますね☆

改革派では今までこういったリトリートが全くなかったので、これからどんどん開催してほしいです。

みなさんの教会では、このような黙想会やリトリートはありますか?

これから自宅だけでなく、時間の余裕があるときは、誰もいない静かなところに行って、ディボーションの時間をより充実させていきたいと思います。やっぱり自宅で祈っていると雑念が入り込んでしまうから。

でも人間の祈りは不完全ですから、どんなに下手な祈りでも、神様は聞いて下さるんですよね。また声にならない苦しみや悲しみも、聖霊の執り成しによって、神様は聞いて下さる。そう思うと、感謝がこみ上げてきます。


そして6/26は神港教会の礼拝に参加して来ました。普段は小さな教会で礼拝しているので、神港教会のような大きな教会での礼拝は圧巻でした!

パイプオルガンも普通のオルガンとは格が違う!やっぱり音色が素晴らしい。この教会で賛美ができるっていいなぁ。

今回の旅行は、懐かしい人たちやmixiのマイミクさんにも会えたし、新たな出会いもあったので、幸せな時間でした。

だいぶ疲れたから、全く観光できなかったけど。

でも正直なところ、観光するより、人と交わったり、色んな教会へ行くほうが楽しいなぁ。

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