日本で宣教師として奉仕されているヒュー・ブラウン先生が、
「田村淳の地上波ではダメ!」に出演した動画を
人から教えてもらったので、シェアします。
10代の時に、北アイルランド紛争の元テロリストだったけど、
刑務所で回心して、クリスチャンになられた方です。
すごく良い証しなので、おすすめします。(*^_^*)
こちらのサイトには、先生のインタビュー記事がありました。
日本で宣教師として奉仕されているヒュー・ブラウン先生が、
「田村淳の地上波ではダメ!」に出演した動画を
人から教えてもらったので、シェアします。
10代の時に、北アイルランド紛争の元テロリストだったけど、
刑務所で回心して、クリスチャンになられた方です。
すごく良い証しなので、おすすめします。(*^_^*)
こちらのサイトには、先生のインタビュー記事がありました。
どうして叶わない願いがあるんだろう。
欲しいと思っているものほど、手に入らない気がする。
一生、願い続けても叶わないと思える願いが誰にでもある。
それでも努力したい。
無理矢理、自分の気持ちを押し殺しても苦しくなってしまう。
今は諦めることすらできないのだから。
でも、今ここにあるものを大切だと思える気持ちも持ちたい。
そうすれば感謝が生まれる。
人間の生活は感謝から始まっていくんだ♪
また、意外と、欲しいと思っているものは、近くにあったりする。
もちろん理想の形ではないけど、その原石はすぐそばにある。
その原石を理想のもの・輝くものにできるかどうかは、
自分の生き方次第だと思う。
そう考えたら、いつか願いが叶うかな?
こういった思いが希望なのかもしれない。
大切なことは、心の中に限界を設けないことだ。
もちろん、僕は理想と現実の遠さによく落ち込む。
でも、落ち込んで良いと思う。
それでも願いや希望は信じているから。
努力していても、理想とは程遠い自分にショックを受けることがある。
人間は弱いから、周期的にネガティブになってしまう。
でも、その度に立ち上がっていけばいいんだよね。
人生は浮き沈みの繰り返しで、
押し寄せては引いていく。
人間には欠けがあるのだから。
ネガティブな感情も自分のなかに生命がある証拠だから、
理想の自分を目指していくときにできる影を見る勇気があれば、
大丈夫なんだよね。
その勇気があれば、また立ち上がることができる。
たとえ落ち込んでも、理想や希望を信じていれば、それは失望ではない。
希望は消えかかりながら灯火のように輝くんだろうなぁ。
【デール・カーネギー】
この世で重要なことのほとんどは、
全く希望がないように見えたときでも、
挑戦し続けた人々によって成し遂げられてきた。
【ネルソン・マンデラ】
こんにちは、お久しぶりです♪
毎日、すごく寒いので、
体が痛くて、体調を壊してました。。。
昔、書いた日記を編集してみました♪
タイトル「神が光の下で言われたことを」
【V・レイモンド・エドマン】
「神が光の下で言われたことを、決して暗闇の中で疑ってはならない」
【新共同訳 詩編 139編8~12節】
「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます」。
曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。
わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」
闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わるところがない。
私たち人間は生きていく中で、不安や恐れ、地獄にいるような試練や苦痛を味わうことがあります。イエス様を信じている人は救われているけど、それでも暗闇の日々を歩むことがあります。
地獄や暗闇というのは、死の世界であり、神様のいない世界、つまり神様から引き離された世界のことです。生きていると、「どうしてこんな苦しい目に遭わなければいけないの」と神様から遠く引き離されたような気持ちになる時もあります。
でも、天国や地上にも、また陰府(地獄)にも、神様の御子であるイエス様がたどられなかったところはないんですよね。また、イエス様が感じることのできなかった人間の絶望や悲しみはないのです。
なぜなら、十字架で死なれたイエス様は陰府(地獄)にまでくだられたのですから。僕たちがどんなにひどい試練の中に置かれ、苦痛と悩みのどん底で何の希望もないように感じる時も、地獄にまでくだられたイエス様は、必ず共にいてくださいます。
たとえ地獄を味わっても、イエス様は私たちのそばにおられます。そして、イエス様が共におられるなら、そこは地獄ではないんですよね。
どんな暗闇の中にいたとしても、「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と光の下で言われた神様の言葉を疑わずに信じていきたいです。
確かに、暗闇の中にいれば、目には見えない神様を疑ってしまうときもあります。でも、神様の救いの力は、人間の疑いをはるかに勝るから、その力を信じていくことが大切なのだと思います。
♪以下の文章は、メッセージの補足で、改革派教会の牧師が書かれた文章の一部です♪
引用元はこちら↓
https://www.kitakobe-christ-church.com/morning_service/detail.php?id=132
~イエス様の「陰府くだり」について~
使徒信条では、主は「陰府にくだり」とあります。
「陰府にくだり」という一句が、聖書のどこに基づいて加えられたのかは、よく分りませんが、ペトロの手紙一 3章19節(新共同訳)の「霊においてキリストは、捕われていた霊たちの所へ行って宣教され」と関係しているのではないかと言われます。ここは昔から、聖書の中で解釈の最も難しい箇所の一つです。
聖書では、陰府と地獄は、厳密に言いますと、違います。地獄は、神に対してあくまで不信仰な罪人が最後の審判の後、行く所であり、永遠に神に捨てられる最も悲惨な状態を指します。一方、陰府は、旧約聖書によりますと、死者が一旦行く死者の世界のようです。しかし、新約聖書では、よく分りません。
「陰府くだり」の代表的な解釈を見ておきます。
第一は、「捕われていた霊たち」を、ペトロの手紙一 3章20節から見て、生きていた時は、キリストの福音を聞く機会がないまま死んだあと、陰府にいて苦しんでいる人たちと解釈し、そういう人たちの所にも、キリストは十字架の死後、下っていかれ、福音を伝え、救いのチャンスを与えられた、と解釈します。
第二は、十字架の死と復活までの間に、イエス・キリストは霊において陰府に下り、罪と死と悪魔に対して御自分の勝利を、また堕落した天使と人間の霊に対して恐るべき裁きを宣言されたとします。宗教改革者ルターがこれです。
第三は、アウグスティヌスなどの解釈であり、ここはキリストの十字架の死と復活の間の陰府くだりとは関係なく、聖霊によるキリストの旧約時代の宣教活動を指しているとし、19節の「霊において」は、「聖霊において」と解釈されます。
聖霊によるキリストの旧約時代の宣教活動は、Ⅰペトロ1章11節でも言われています。従って、3章19節の「捕われていた霊たち」とは、不従順だったために今は死んで捕われている者たちの霊のことであり、昔、キリストが聖霊によって活動された時には宣教対象だったとされます。
僕が属している改革派教会は次のように考えています。
『ハイデルベルク信仰問答』
問44「使徒信条では、なぜ『陰府に下り』と続くのですか。」
答「それは、私たちが最も激しい試みの時にも、次のように確信するためです。つまり、イエス様は、十字架上と陰府に至るまで、御自身もまたその魂において忍ばれてきた、言い難い不安と苦痛と恐れとによって、地獄のような不安と痛みから、私たちを解放して下さったのだ、と。」
つまり、イエス様の十字架の死は、私たち罪人がそのままだと味わわなければならない永遠の地獄の刑罰を、私たちに代って全て味わう呪いの死であり、イエス様の体が三日間、墓の中に留まったことで、イエス様は恐るべき地獄の苦痛を私たちに代って忍ばれたのです。
従って、私たちがイエス様を、神の御子、また、自分の救い主として、心から信じ、受け入れ、依り頼むなら、もう地獄はありません。「陰府にくだり」と代々の教会が告白してきたイエス・キリストが、十字架により、信仰者から地獄を完全に取り除いて下さったからです。
仲間が殺され、明日の命も分からない厳しい時代に生きなければならなかった多くのクリスチャンたちにとって、主は「陰府にくだり」の一句は、どんなに大きな慰めと勇気を与えたことでしょうか。もう地獄はないからです。
今日のクリスチャンも、この世で、まるで陰府や地獄のような苦しみに遭うことがあります。でも、忘れてはなりません。どんなに辛くても、イエス・キリストの故に、もう地獄はありません。その意味で、耐えられないような試練は、Ⅰコリント10章13節が約束しますように、決して私たち信仰者に臨むことはありません。
♪新共同訳 ペトロの手紙一 1章6、7節♪
「それ故、あなた方は、心から喜んでいるのです。今暫くの間、色々な試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなた方の信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちる他ない金より遥かに尊くて、イエス・キリストが現れる時には、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」