真の楽観主義者とは、現実を無視して、
単に「なるようになるさ」と、根拠のない希望的観測を抱きながら生きている人ではない。
現実がいかに厳しくとも、
自分には使命があり、苦難には必ず目的があって意味がある、
自分は神様の偉大な目的のために生かされている、
という確信を持っている人のことだ。
苦難には必ず目的があって意味がある!という確信と、
全能なる神様のご計画に対する信頼があるからこそ、
現実の中で闘いながら、
その苦難を、使命を達成するためのエネルギーに転化することができるんだ。
もちろん憂鬱になる時もある。
でも、人間は目の前のことばかり思い煩っていては疲れ果ててしまう。
だから、そんな時こそ、「遠くを見る」ことが必要だ。
広々とした空間に目を向けてこそ、人間は安らぐんだよね。
イエス様を自分の救い主と信じて受け入れたとき、御霊が僕たちの心に住んで下さった。
御霊をいただいている僕たちは、神様の子供とされているから、
すでに神の御国での救いの完成は保証されている。
だから、悩み多きこの世にあっても、
天にある神の御国、やがて訪れる神の御国を仰ぎ見ることで平安を得て、
天からの愛を感じることができるんだ。
【三浦綾子】
「 『使命』という字は、命を使うと書くと聞いた。
なるほど、使命とは命を使うことか。味わい深い言葉なり。
一本の花が命の限りに咲いている。
それもまた使命を果たしているということ。
その人なりにひたすらに生きる、美しいことだ。 」
この記事と合わせて、↓の僕のメッセージも読んでもらえると嬉しいです。
神の摂理に信頼する(この文字をクリックしてください)
【新改訳聖書 ヨハネの黙示録 21章1~5節】
また私は、新しい天と新しい地とを見た。
以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、
神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。
「見よ。神の幕屋が人とともにある。
神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。
また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。
もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。
なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
すると、御座に着いておられる方が言われた。
「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」
また言われた。
「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」
以下は、本で読んだ箇所を簡単にまとめました。
やがて訪れる神の御国の説明です。
ヨハネ黙示録の最後の21章と22章には、救いの歴史の結論であり、
救いの完成を指し示す、まったく新しい世界の始まりがある。
そこには「聖なる都、新しいエルサレム」と呼ばれる輝かしい永遠の「御国」が啓示されており、
その中心には、神様と小羊(キリスト)との御座がある。
御国において、神様の民は、永遠に神様に仕え、神様の御顔を仰ぎ見るのである。
そこで、人は神様の聖が回復されて、神様との永遠の交わりをもって、共に住むのである。
完成された御国では、 神様と人との関係は、もはや永遠に断たれることはない。
この上なく親密で、至福の交わりである。全宇宙で最も輝かしく美しいものなのである。
「聖なる都、新しいエルサレム」は、「小羊の妻である花嫁」であり、
神様の臨在をあかしする「神の幕屋」とも呼ばれる。
神様と人とが、顔と顔とを会わせ、共に住むのである。
神の都の特徴は「輝き」「光」である。
神様の臨在の輝き、栄光は地上にいる私たちには十分理解することはできない。
それでも、今の地上での礼拝の中で、神の都の栄光の一部を味わうことができる。
やがて神の都においては、神様の臨在の中に私たちが引き入れられ、
圧倒されるような聖さ、愛、真実さにふれることになるだろう。
神の都には、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」。
神の都での最もすばらしいことは、その民が「神様の御顔を仰ぎ見る」ことである。
神様との深い交わりの中で、私たちの重荷はすべて取り払われて、
私たちの目は、ただ御座におられる神様と小羊(キリスト)にのみ注目し、
その方を永久にほめたたえながら、喜びと感謝を表わす。
これこそ、回復された人間の本来的な姿であり、天における礼拝の姿なのである。
♪賛美「新しいエルサレム」♪
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ありがとうございます。
単に「なるようになるさ」と、根拠のない希望的観測を抱きながら生きている人ではない。
現実がいかに厳しくとも、
自分には使命があり、苦難には必ず目的があって意味がある、
自分は神様の偉大な目的のために生かされている、
という確信を持っている人のことだ。
苦難には必ず目的があって意味がある!という確信と、
全能なる神様のご計画に対する信頼があるからこそ、
現実の中で闘いながら、
その苦難を、使命を達成するためのエネルギーに転化することができるんだ。
もちろん憂鬱になる時もある。
でも、人間は目の前のことばかり思い煩っていては疲れ果ててしまう。
だから、そんな時こそ、「遠くを見る」ことが必要だ。
広々とした空間に目を向けてこそ、人間は安らぐんだよね。
イエス様を自分の救い主と信じて受け入れたとき、御霊が僕たちの心に住んで下さった。
御霊をいただいている僕たちは、神様の子供とされているから、
すでに神の御国での救いの完成は保証されている。
だから、悩み多きこの世にあっても、
天にある神の御国、やがて訪れる神の御国を仰ぎ見ることで平安を得て、
天からの愛を感じることができるんだ。
【三浦綾子】
「 『使命』という字は、命を使うと書くと聞いた。
なるほど、使命とは命を使うことか。味わい深い言葉なり。
一本の花が命の限りに咲いている。
それもまた使命を果たしているということ。
その人なりにひたすらに生きる、美しいことだ。 」
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【新改訳聖書 ヨハネの黙示録 21章1~5節】
また私は、新しい天と新しい地とを見た。
以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、
神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。
「見よ。神の幕屋が人とともにある。
神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。
また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。
もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。
なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
すると、御座に着いておられる方が言われた。
「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」
また言われた。
「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」
以下は、本で読んだ箇所を簡単にまとめました。
やがて訪れる神の御国の説明です。
ヨハネ黙示録の最後の21章と22章には、救いの歴史の結論であり、
救いの完成を指し示す、まったく新しい世界の始まりがある。
そこには「聖なる都、新しいエルサレム」と呼ばれる輝かしい永遠の「御国」が啓示されており、
その中心には、神様と小羊(キリスト)との御座がある。
御国において、神様の民は、永遠に神様に仕え、神様の御顔を仰ぎ見るのである。
そこで、人は神様の聖が回復されて、神様との永遠の交わりをもって、共に住むのである。
完成された御国では、 神様と人との関係は、もはや永遠に断たれることはない。
この上なく親密で、至福の交わりである。全宇宙で最も輝かしく美しいものなのである。
「聖なる都、新しいエルサレム」は、「小羊の妻である花嫁」であり、
神様の臨在をあかしする「神の幕屋」とも呼ばれる。
神様と人とが、顔と顔とを会わせ、共に住むのである。
神の都の特徴は「輝き」「光」である。
神様の臨在の輝き、栄光は地上にいる私たちには十分理解することはできない。
それでも、今の地上での礼拝の中で、神の都の栄光の一部を味わうことができる。
やがて神の都においては、神様の臨在の中に私たちが引き入れられ、
圧倒されるような聖さ、愛、真実さにふれることになるだろう。
神の都には、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」。
神の都での最もすばらしいことは、その民が「神様の御顔を仰ぎ見る」ことである。
神様との深い交わりの中で、私たちの重荷はすべて取り払われて、
私たちの目は、ただ御座におられる神様と小羊(キリスト)にのみ注目し、
その方を永久にほめたたえながら、喜びと感謝を表わす。
これこそ、回復された人間の本来的な姿であり、天における礼拝の姿なのである。
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