明日を夢見て~神様と筋ジストロフィーと共に生きる~

クリスチャン。デュシェンヌ型筋ジストロフィー患者で電動車椅子と人工呼吸器を使っている。

世の光

2011年05月30日 16時55分58秒 | キリスト教
♪BGM♪
輝く日を仰ぐとき / べー・チェチョル

「御神は世人(よびと)を愛し 一人の御子を下(くだ)し
世人の救いのために 十字架にかけ給えり

天地(あめつち)造りし神は 人をも造り替えて
正しく清き魂 持つ身とならしめ給う」

改革派教会の佐々木稔先生のこの説教を読んで、インスピレーションを受けました!!

http://homepage3.nifty.com/msasaki/yohane8n1.html

というわけで感想を書いてみました。

【ヨハネによる福音書 8章12節】

『イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」』


僕は暗闇の中で人生を歩んでいた時期があった。人生の道を見失い、苦難にぶつかり、心は大きく傷つき、むなしい日々を過ごしていた。「あぁ、自分はこのまま何もできずに死んでいくのか」と思っていた。

神を恨んだ。神はいないとさえ思った。そして絶望と怒りの中にいたから、やがて無力感が訪れた。「あぁ、僕の人生って何の意味があるのか」と思った。人間をドン底に落とすのは無力感なんだ。

この箇所の「暗闇」とは、神を離れた人間が罪の中にむなしく日々生きている霊的状態をあらわしている。まさに僕は霊的な暗闇の中にいたんだ。

でもなぜか不思議と「イエス様、助けてください」という気持ちは心のどこかにあった。祈らないことは多かったけど…。

僕はいつも死をリアルに感じている。ますます病気が悪化していき、寝たきりになり、35歳で死ぬこの病気。仕事や結婚すら全く望めない。でもそんな悲しい人生であっても、イエス様はこんな罪人の僕のために十字架で犠牲になったほど、僕を愛してくださっているんだね。。

イエス・キリストは罪人の人間を救うために、この世に来られ、全人類の罪の象徴である十字架ではりつけになられました。でもイエス様は単に犠牲になったのではありません。3日後に復活しました。

人間は罪があるから死ぬのです。でもイエス様は死人の中から復活し、罪に打ち勝ち、死を滅ぼしました。そしてイエス様の十字架と復活を信じ、イエス様は救い主にして神様のみ子と信じるクリスチャンを、死後、新しい霊の身体に生まれ変わらせ、天国で永遠の命を与えて下さるのです。

このイエス様の愛に再び感激したとき、神様は僕の心の中に光を与えてくださった。きっと暗闇の中を歩んでいたことも、再びイエス様の愛という光を感じるためだったんだ。以前よりも大いにこの光を感じられるようになった。イエス様は、罪人の世界を明るく照らす唯一の光なんだね。。

そして永遠の命に導く明るいこの光を得て、希望を持って、大切な人生を歩んでいくことができるようになった。以前よりも強く、イエス様を「神の御子にして救い主」と信じていけるようになった。

天国の永遠の命という希望があるからこそ、病気の人生でも、諦めずに生きていけるんですよね。天国というゴールに向かって、いま人生というマラソンを走り抜いていく。信仰・希望・愛を身にまといながら。

たまに僕の証しを読んだ人から、「あなたの信仰は素晴らしい。強いクリスチャンなんですね」というメッセージがくる。

でも僕は本当に弱い人間なんだよ。以前ほどじゃないけど、今でも周期的に絶望し、無力感に苦しむときがある。現実は変わらないどころか、むしろますます病気は悪化していく。

信仰が強いクリスチャンなんて、僕はいないと思う。みんな弱いんだ。人間の心は移ろいやすいから、人間の力で信仰や救いを得るなんて無理なんだ。

「私の信仰をしっかり持つんだ」「これが私の信仰だ」と思っていても、苦難に直面すると、そんな信仰は粉々に砕けてしまう。

でも神様は永遠に不変だよ。神様の約束は永遠に変わらない。神様のみが人間に信仰や救いを与えて下さる。「イエス様、助けてください」という気持ちが心のどこかにあるということは、必ず大丈夫ってことなんだよね。

人間は絶望する。人間は苦難にぶつかると不信仰になる。でもイエス・キリストは人間の不信仰よりも強いお方。イエス・キリストは人間の絶望よりも深いお方だと改めて思う。

クリスチャンは絶望する勇気も持っていいんだよね。イエス様のみ手に支えられて、暗闇の深みへ落ちないように、神様は守ってくださるのだから。「生きる時も死ぬ時も、私たちは主イエス・キリストのものである」、まさにこの通りなんだよね。

そして神様は永遠に私たちに関わっていてくださる、永遠に愛していてくださる。


【イザヤ書41章8~10節】

わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。

わたしはあなたを固くとらえ 地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕。わたしはあなたを選び、決して見捨てない。

恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える。

【ローマの信徒への手紙 5章1~10節】

このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、

このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、

忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。

希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。

正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。

しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。

それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。


*********************

下のバナーをクリックしてくださるとこのブログを訪問する方が増えます。宜しくお願いします。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 病気ブログへ
にほんブログ村


障害を負うということ

2011年05月21日 16時59分30秒 | キリスト教
♪BGM♪
誕生日 / 熊木杏里

「おめでとう
今日まで辿りついたんだよ
思い出がまたひとつ増えました
ありがとう
理由は何もないんだよ
あなたという人がいることでいいんだよ」

前の日記に載せた論文を書いた井原牧生牧師は、僕と同じ筋ジストロフィーという病気なんですよね。ベッカー型なので、デュシャンヌ型の僕よりは軽度ですが。

昨日この論文を読みました。神様によって、暗い海の底から大空へと引き上げられたような気持ちになった!!井原牧師は凄い。また井原牧師をこのようにした神様は凄い。

障害を負っている人というのは、優秀な人や健康体な人から考えたら、不幸だと思われるかもしれない。

でも不幸だと思われる者に神様の救いが降り注ぐとき、それは全人類の救いのしるしとなる。だからこそ、クリスチャン障害者は、神様の素晴らしさを証ししていかなければいけないんだね。

幸福な中で神様の素晴らしさを証ししても、あまり人々から関心を得ることはない。でも不幸な中で神様の素晴らしさを証しすれば、たくさんの人々から関心を得られると思うんだよね。

でも障害を負っていても、信仰を失わないで、むしろ病気が悪化すればするほど、神様の慰めを感じられるようになるのは、とても幸せなことだなぁ。神様と交わることが、人間にとって最高の幸福なのだから。

信仰があれば、不幸なことも幸せになる。どのような苦難からも意味を見出すことができる。

障害を負っているからこそ、より強く主イエスを証しすることができる。僕が信仰・希望・愛を持ちながら生かされていることは、神様の恵み深さと憐れみ深さを伝えることになる。


また障害を負っていると、苦しみを理解しない冷たい人々から差別されることがよくある。人の罪の悲惨さをいつも感じてしまう。

でもヨブのように、差別した人のことをお祈りしていかなければいけないんだね。神様から裁かれず、悔い改めて、赦されるようにする、執り成しの役割がある。

またクリスチャン障害者も、この世にあっては、無力で、あるいは世に捨てられた形で生きてゆかなければならないこともある。でも僕たちは、主とともに世をリードするものであることを忘れてはいけないんだね。

イエス様は障害を負っている人も愛された。この地上に神の国を作っていくために、障害を負っている人も主の働きに参与していことが大事なんだ!!

僕は競争社会の世の中では、力を発揮して生きていくことは不可能だ。やっぱり蹴落とされていく。優秀で健康な人しか生き残れないから。

でも聖書が教えている価値観の世の中なら、障害という賜物を基盤にして力を発揮して生きていける。だからこそ、障害や病気を負ったことは、神様からの召命なんだろうなぁ。

いま競争社会の世の中は行き詰まっている。きっと僕に役割があるはずだ。競争社会から共生社会に展開させる役割が、障害を負っている人にはあるんだ。


不思議なことに、いつも心が沈んでいるときに、自分を生き返らせてくれる本・言葉・人に出会う。神様は僕に必要なものを必要なときに与えて下さるのだと改めて思ったよ。

苦しいことは多いけど、心の浮き沈みは激しいけど、僕はこの病気になって良かったと思う。こんな風に人生を肯定できるなんて、まさに神様の恵みなんだよね。

全ては神様のご計画の中にある!!万事が益となる!!


【高山樗牛】

『自分が立っている所を深く掘れ。そこからきっと泉が湧きでる。』

【ただ、君を愛してる】

『私、私に生まれてきて良かった。ほかの誰でもない、私に生まれてきて良かった。』

【アシュリー・ヘギ】

『プロジェリアじゃなければいいのに、なんて思わないわ。わたしは、わたしという人間であることが幸せだし、神様がわたしをこうお創りになったのには、きっと理由があるはずだもの。』

『もしかしたら神様は、“わたしはプロジェリアだけど、こう生きている”ということを人に見せなさいって、その機会をお与えになったのかもしれないって思うの。この病気をとおして、人を助けなさいということかもしれないって思うの。』


*********************

下のバナーをクリックしてくださるとこのブログを訪問する方が増えます。宜しくお願いします。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 病気ブログへ
にほんブログ村


なぜ?なんのために

2011年05月21日 16時44分13秒 | キリスト教
日本キリスト改革派教会 牧師 井原牧生 『なぜ?なんのために』

「なぜ障害者として生まれて来なければならなかったのか?」という疑問と、それに続いて、「それなら、私たち障害者の存在の役割と使命はいったい何なのか?」という課題が出て来る筈です。

もちろん、これは対する解答は、「キリストを中心とした神様の約束を実行するためであり、この約束の実行に障害者をも参加させるためである」という結論が出て来て当然でしょう。このことはキリストの三職に結びつくことですから、ご一緒にたどってみましょう。

【預言者的務めについて】

イエス様が父なる神様の言葉に預かって、その聖旨である救いの真理と神の国について明らかに示されたように、私たちもまた神様の示される真理を身をもって、証ししてゆかなければいけません。

たしかに、障害者でなければならぬ証しがあるのです。マタイによる福音書11章の記事もその一つの例でしょう。バプテスマのヨハネに対して、主イエスはメシヤの証しと神の国の到来の宣言を、障害者の癒しによってなしたのです。

このことは、使徒言行録3章の美しい門で行われたペテロ、ヨハネの癒しの場合も同様です。これらはイザヤ書35章に約束された預言の成就であり、その指定された条件に従って障害者が選ばれたのであります。

「そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」と告げられていたものです。

旧約聖書の中には、全人類が負わされている罪の悲惨を表すしるしとして障害者が用いられた例があります。

その反面、神様の恵みとあわれみとを表す器として用いられた例もあります。このことは、いまでも変わりません。

障害者でなければ判らない人の世の罪と悲しみがありますし、障害者になってはじめて判り得た主の恵みの尊さもあるのです。

また障害者でなければ判らない秘義や道理もあります。当然のことですが、私たち障害者だけにゆるされた証しを大切にしましょう。


キリストにあずかる契約の恵みの素晴らしさを身をもって証しし、その恩恵に浴したいものです。

【祭司的役割について】

祭司というのは、旧約聖書に示しているように、人間の罪を神様の前に執り成して、ゆるしを得させる務めであります。

さきにも申しましたように、障害者だけが知っている人の世の罪と悲しみがあります。障害者は当然、そのために祈りをもって執り成さなければなりません。健常者たちのために執り成しの務めを果たさなければなりません。

その適切な例が、ヨブ記の最後に出てきます。ヨブは、神様の摂理のもとに起こったことですが、大変な試練にあいました。その時、友人たちがやって来て、彼を慰め励まそうとするわけです。

しかし、逆に友人たちの言葉が、ヨブを怒らせ苦しませ、大論争となります。しかし、やがてヨブは、主と直接対決することになって、ヨブは打ち砕かれ、ゆるしを得て旧の平安にもどります。

ところが、それだけではすまなかったですね。神様は、ヨブの友人たちに対して、罪とその責任を問われるのです。「お前たちは、ヨブの苦しみを理解しなかったばかりでなく、逆に彼を苦しめた」と責められたのです。エリパズを代表とする彼らの罪のゆるしは、どのように与えられたかという聖書の記事に注目しましょう。

主なる神様が与えて下さったゆるしの条件は、友人たちがヨブに頼んで、その執り成しによってゆるしを神に求めることでした。

私たちはヨブの執り成しに学ばなければなりません。私たち障害者は健常者のために祈らなければなりません。最近の教会の姿勢は、障害者のために祈らなければならないと盛んに叫ばれていますが、その反面、障害者の祈りが教会を生かし、祝福をもたらしていることを忘れてはなりません。

【王的職務について】

クリスチャン障害者は、キリストとともに王的務めを果たすべきだというのです。

十字架にかけられる日が迫って来た時、イエス様は、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」といわれました。

「世に勝つ」ということによって、既に、世をリードし、支配しておられることを表明しておられます。たしかに主は、やがて、世に捨てられ、十字架につけられようとしておられたわけです。しかし、救いの計画は予定通り進められ、神の国は着実に進展していたのです。

私たちクリスチャン障害者も、この世にあっては、無力で、あるいは世に捨てられた形で生きてゆかなければならないこともあるでしょう。しかし、私たちは、主とともに世をリードするものであることを忘れてはなりません。

ルカによる福音書22章28~30節がよく示しています。

「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。 

だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。 

あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」 と、慰めと励ましを与えてくれます。

私たちは、すべてを支配しておられる主の御わざに参与し、主とともに神の国の勝利にあずかるのです。

この王的務めという教理には、大変深い意味が含まれています。本当に慰め深い教理を含んでおります。

主キリストが王として私たちを神の国に迎えて下さる時には、私たちは、地上のすべての役割からとき放たれ、すべての束縛から解放され、完全に聖化されて神の国での交わりに入れて頂くのです。

そこには、身体障害者も、知的障害もありません。精神障害といわれる人もなく、全部が完全な、造られたときの人間として生きることになるのです。


*********************

下のバナーをクリックしてくださるとこのブログを訪問する方が増えます。宜しくお願いします。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 病気ブログへ
にほんブログ村


『孤独からの解放』『あるがまま』『悲しみ』

2011年05月20日 18時59分52秒 | 作詩
今日はジメジメした暑さだ。。。

梅雨を通り越して、夏になっているのだろうか。去年もこんな感じだったよね?

次に最近、創作意欲に燃えているので、また作詩してみた。前回がダラダラと長く書いてしまったから、今回は短くまとめた。

でも表現がよくないなぁ。何というかあっさりしすぎ?

もっと比喩表現を身につけたいよ。

『孤独からの解放』

寂しいから泣いてしまう
ひとりの夜

僕はいま
何のために生きているのだろう

愛されたいから泣く
そんな弱い僕

「甘えるな」
そんな言葉は聞き飽きた

でも夜が明けると
君だけが僕のことを見ていてくれたことに気付く
あぁ 僕はひとりじゃなかったんだ
僕の中にある暗闇が 君の存在を隠していたんだね

人の心は見えないから
人は孤独を感じてしまうんだ

涙が僕の暗闇を溶かしてくれる
君の存在が僕を生かしてくれる

互いを傷つけ合う世の中で
君と出会えたことは奇跡だよ

生きていてよかった
君と出会えたから

ありがとう
こんなあたたかい関係(あい)がいつまでも続くといいな

『あるがまま』

あるがままの心
さらけ出すことは難しい
だって裸の自分を見せることで
傷付かないことはないから

でも裸の自分をさらけ出さないと
人は生きていけない

そっと心の扉を開けてくれる
そんな相手を探さずにはいられないよ

でも孤独の痛みを知っているからこそ
人を愛さずにはいられないんだ

『悲しみ』

本当に美しいものは
悲しみを秘めている

いま感じている
痛みや苦しみ
全て無駄じゃない

痛みや苦しみは
愛を創り上げていくものなんだよ

人間に一番必要なものは愛
悲しみからも愛は生まれる

僕の労苦も
いつか人のために生かされるときがくるんだ

*********************

下のバナーをクリックしてくださるとこのブログを訪問する方が増えます。宜しくお願いします。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 病気ブログへ
にほんブログ村


心の在り方

2011年05月17日 20時14分34秒 | エッセイ
♪BGM♪
はるまついぶき / Bank Band

「心に形なんかない 逆を言えば自由自在に姿を変えていけんだ
暗い海の底に沈んだ日でも 青空を飛んでいる」

人の心って不思議だ。心が愛や希望でいっぱいになるとポジティブになる。でも心が悪でいっぱいになるとネガティブになる。

やっぱり人間は原罪を持っているから、心のどこかに悪は必ず存在するんだろうなぁ。だから悪口を言ってしまう。他人の悪意ある中傷は、鋭いナイフよりも深く傷付く。

悪がもっと大きくなると暴行や殺人を起こしてしまう。そしてもっともっと大きくなると紛争につながる。悪の連鎖は恐ろしい。。

逆に希望や愛を生むことができれば、心が豊かになる。そうすれば心にゆとりが生まれ、幸せに気付くことができ、心が平安になる。

【ルカによる福音書 6章43~45節】

「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。

木は、それぞれ、その結び実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。

善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」


心が悪で支配されていたら、いつもイライラし、ネガティブの深みへと堕ちてしまう。でも愛や希望で心が満たされていれば、心が平安になり、ポジティブの高みへと昇っていける。

だからなるべく悪口は言いたくない。悪口を言ったら、必ず自分に返ってくると思うから。

以前の僕は嫌いな人に対して、悪口を言っていた。でも生きているんだから、この世界には自分を中傷する人の方が多い。だからそういう人がいるんだと認めて、それを受け止めれば良いんだよね。笑われる事なく、恨まれる事なく、輝く命など無いのだから。

僕のこの意見は、空虚な理想論かもしれない。でも理想を全く失った人間は「人間」ではなく、単なるロボットでしかないと思うんだよね。あまりにも現実的過ぎる人間も一緒にいて疲れてしまうから。

でも悪口を言ったり、ネガティブになるときは、生きていれば必ずあるよね。また、やっぱり嫌いな人に優しく接することは難しいよ。僕はこんな自分に絶望することがよくある。

でも自分というものに絶望してもいいんだよね。クリスチャンは絶望する勇気も持つことができるんだ。絶望してもなお神様から支えられていく、そういう信仰を持つことができる。これは自分の力だけにより頼んでいる世界の中では、決して出てこない生き方だと思うよ。

心が悪に支配されそうな時は心癒される場所に行ったり、心癒されるものに触れたらいい。神様にお祈りすればいい。そうして心にゆとりが生まれてくれば、ポジティブになり、愛と希望を持つことができるから。


まだまだ世界は捨てたもんじゃない。きっと世界は美しいんだ。悪いところだけ見るのは良くないよ。もちろん悪いところを全く見ないのも良くないけど… 。

今まで出会った人の中で、いつも他人の欠点をあら探しして、他人の悪口ばかり言っていた人がいたけど、なんだかつまらない人だなぁと思ったよ。

ちなみに僕は他人を批判することはいいと思うんだ。他人の欠点をアドバイスしてあげたいというような善意の気持ちがあればいいよ。でも悪意の気持ちがあれば、なんとなく伝わってくるからね。

やっぱり僕は愛と希望の人になりたいなぁと改めて思った。確かに病気は苦しいけど、BGMのこの歌詞のように生きていきたいよ☆

*********************

下のバナーをクリックしてくださるとこのブログを訪問する方が増えます。宜しくお願いします。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

にほんブログ村 病気ブログへ
にほんブログ村