♪BGM♪
輝く日を仰ぐとき / べー・チェチョル
「御神は世人(よびと)を愛し 一人の御子を下(くだ)し
世人の救いのために 十字架にかけ給えり
天地(あめつち)造りし神は 人をも造り替えて
正しく清き魂 持つ身とならしめ給う」
改革派教会の佐々木稔先生のこの説教を読んで、インスピレーションを受けました!!
http://homepage3.nifty.com/msasaki/yohane8n1.html
というわけで感想を書いてみました。
【ヨハネによる福音書 8章12節】
『イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」』
僕は暗闇の中で人生を歩んでいた時期があった。人生の道を見失い、苦難にぶつかり、心は大きく傷つき、むなしい日々を過ごしていた。「あぁ、自分はこのまま何もできずに死んでいくのか」と思っていた。
神を恨んだ。神はいないとさえ思った。そして絶望と怒りの中にいたから、やがて無力感が訪れた。「あぁ、僕の人生って何の意味があるのか」と思った。人間をドン底に落とすのは無力感なんだ。
この箇所の「暗闇」とは、神を離れた人間が罪の中にむなしく日々生きている霊的状態をあらわしている。まさに僕は霊的な暗闇の中にいたんだ。
でもなぜか不思議と「イエス様、助けてください」という気持ちは心のどこかにあった。祈らないことは多かったけど…。
僕はいつも死をリアルに感じている。ますます病気が悪化していき、寝たきりになり、35歳で死ぬこの病気。仕事や結婚すら全く望めない。でもそんな悲しい人生であっても、イエス様はこんな罪人の僕のために十字架で犠牲になったほど、僕を愛してくださっているんだね。。
イエス・キリストは罪人の人間を救うために、この世に来られ、全人類の罪の象徴である十字架ではりつけになられました。でもイエス様は単に犠牲になったのではありません。3日後に復活しました。
人間は罪があるから死ぬのです。でもイエス様は死人の中から復活し、罪に打ち勝ち、死を滅ぼしました。そしてイエス様の十字架と復活を信じ、イエス様は救い主にして神様のみ子と信じるクリスチャンを、死後、新しい霊の身体に生まれ変わらせ、天国で永遠の命を与えて下さるのです。
このイエス様の愛に再び感激したとき、神様は僕の心の中に光を与えてくださった。きっと暗闇の中を歩んでいたことも、再びイエス様の愛という光を感じるためだったんだ。以前よりも大いにこの光を感じられるようになった。イエス様は、罪人の世界を明るく照らす唯一の光なんだね。。
そして永遠の命に導く明るいこの光を得て、希望を持って、大切な人生を歩んでいくことができるようになった。以前よりも強く、イエス様を「神の御子にして救い主」と信じていけるようになった。
天国の永遠の命という希望があるからこそ、病気の人生でも、諦めずに生きていけるんですよね。天国というゴールに向かって、いま人生というマラソンを走り抜いていく。信仰・希望・愛を身にまといながら。
たまに僕の証しを読んだ人から、「あなたの信仰は素晴らしい。強いクリスチャンなんですね」というメッセージがくる。
でも僕は本当に弱い人間なんだよ。以前ほどじゃないけど、今でも周期的に絶望し、無力感に苦しむときがある。現実は変わらないどころか、むしろますます病気は悪化していく。
信仰が強いクリスチャンなんて、僕はいないと思う。みんな弱いんだ。人間の心は移ろいやすいから、人間の力で信仰や救いを得るなんて無理なんだ。
「私の信仰をしっかり持つんだ」「これが私の信仰だ」と思っていても、苦難に直面すると、そんな信仰は粉々に砕けてしまう。
でも神様は永遠に不変だよ。神様の約束は永遠に変わらない。神様のみが人間に信仰や救いを与えて下さる。「イエス様、助けてください」という気持ちが心のどこかにあるということは、必ず大丈夫ってことなんだよね。
人間は絶望する。人間は苦難にぶつかると不信仰になる。でもイエス・キリストは人間の不信仰よりも強いお方。イエス・キリストは人間の絶望よりも深いお方だと改めて思う。
クリスチャンは絶望する勇気も持っていいんだよね。イエス様のみ手に支えられて、暗闇の深みへ落ちないように、神様は守ってくださるのだから。「生きる時も死ぬ時も、私たちは主イエス・キリストのものである」、まさにこの通りなんだよね。
そして神様は永遠に私たちに関わっていてくださる、永遠に愛していてくださる。
【イザヤ書41章8~10節】
わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。
わたしはあなたを固くとらえ 地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕。わたしはあなたを選び、決して見捨てない。
恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える。
【ローマの信徒への手紙 5章1~10節】
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、
忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。
*********************
下のバナーをクリックしてくださるとこのブログを訪問する方が増えます。宜しくお願いします。
![にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ](http://philosophy.blogmura.com/christian/img/christian88_31.gif)
にほんブログ村
![にほんブログ村 病気ブログへ](http://sick.blogmura.com/img/sick88_31.gif)
にほんブログ村
輝く日を仰ぐとき / べー・チェチョル
「御神は世人(よびと)を愛し 一人の御子を下(くだ)し
世人の救いのために 十字架にかけ給えり
天地(あめつち)造りし神は 人をも造り替えて
正しく清き魂 持つ身とならしめ給う」
改革派教会の佐々木稔先生のこの説教を読んで、インスピレーションを受けました!!
http://homepage3.nifty.com/msasaki/yohane8n1.html
というわけで感想を書いてみました。
【ヨハネによる福音書 8章12節】
『イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」』
僕は暗闇の中で人生を歩んでいた時期があった。人生の道を見失い、苦難にぶつかり、心は大きく傷つき、むなしい日々を過ごしていた。「あぁ、自分はこのまま何もできずに死んでいくのか」と思っていた。
神を恨んだ。神はいないとさえ思った。そして絶望と怒りの中にいたから、やがて無力感が訪れた。「あぁ、僕の人生って何の意味があるのか」と思った。人間をドン底に落とすのは無力感なんだ。
この箇所の「暗闇」とは、神を離れた人間が罪の中にむなしく日々生きている霊的状態をあらわしている。まさに僕は霊的な暗闇の中にいたんだ。
でもなぜか不思議と「イエス様、助けてください」という気持ちは心のどこかにあった。祈らないことは多かったけど…。
僕はいつも死をリアルに感じている。ますます病気が悪化していき、寝たきりになり、35歳で死ぬこの病気。仕事や結婚すら全く望めない。でもそんな悲しい人生であっても、イエス様はこんな罪人の僕のために十字架で犠牲になったほど、僕を愛してくださっているんだね。。
イエス・キリストは罪人の人間を救うために、この世に来られ、全人類の罪の象徴である十字架ではりつけになられました。でもイエス様は単に犠牲になったのではありません。3日後に復活しました。
人間は罪があるから死ぬのです。でもイエス様は死人の中から復活し、罪に打ち勝ち、死を滅ぼしました。そしてイエス様の十字架と復活を信じ、イエス様は救い主にして神様のみ子と信じるクリスチャンを、死後、新しい霊の身体に生まれ変わらせ、天国で永遠の命を与えて下さるのです。
このイエス様の愛に再び感激したとき、神様は僕の心の中に光を与えてくださった。きっと暗闇の中を歩んでいたことも、再びイエス様の愛という光を感じるためだったんだ。以前よりも大いにこの光を感じられるようになった。イエス様は、罪人の世界を明るく照らす唯一の光なんだね。。
そして永遠の命に導く明るいこの光を得て、希望を持って、大切な人生を歩んでいくことができるようになった。以前よりも強く、イエス様を「神の御子にして救い主」と信じていけるようになった。
天国の永遠の命という希望があるからこそ、病気の人生でも、諦めずに生きていけるんですよね。天国というゴールに向かって、いま人生というマラソンを走り抜いていく。信仰・希望・愛を身にまといながら。
たまに僕の証しを読んだ人から、「あなたの信仰は素晴らしい。強いクリスチャンなんですね」というメッセージがくる。
でも僕は本当に弱い人間なんだよ。以前ほどじゃないけど、今でも周期的に絶望し、無力感に苦しむときがある。現実は変わらないどころか、むしろますます病気は悪化していく。
信仰が強いクリスチャンなんて、僕はいないと思う。みんな弱いんだ。人間の心は移ろいやすいから、人間の力で信仰や救いを得るなんて無理なんだ。
「私の信仰をしっかり持つんだ」「これが私の信仰だ」と思っていても、苦難に直面すると、そんな信仰は粉々に砕けてしまう。
でも神様は永遠に不変だよ。神様の約束は永遠に変わらない。神様のみが人間に信仰や救いを与えて下さる。「イエス様、助けてください」という気持ちが心のどこかにあるということは、必ず大丈夫ってことなんだよね。
人間は絶望する。人間は苦難にぶつかると不信仰になる。でもイエス・キリストは人間の不信仰よりも強いお方。イエス・キリストは人間の絶望よりも深いお方だと改めて思う。
クリスチャンは絶望する勇気も持っていいんだよね。イエス様のみ手に支えられて、暗闇の深みへ落ちないように、神様は守ってくださるのだから。「生きる時も死ぬ時も、私たちは主イエス・キリストのものである」、まさにこの通りなんだよね。
そして神様は永遠に私たちに関わっていてくださる、永遠に愛していてくださる。
【イザヤ書41章8~10節】
わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。
わたしはあなたを固くとらえ 地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕。わたしはあなたを選び、決して見捨てない。
恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える。
【ローマの信徒への手紙 5章1~10節】
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、
忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。
*********************
下のバナーをクリックしてくださるとこのブログを訪問する方が増えます。宜しくお願いします。
![にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ](http://philosophy.blogmura.com/christian/img/christian88_31.gif)
にほんブログ村
![にほんブログ村 病気ブログへ](http://sick.blogmura.com/img/sick88_31.gif)
にほんブログ村