明日を夢見て~神様と筋ジストロフィーと共に生きる~

クリスチャン。デュシェンヌ型筋ジストロフィー患者で電動車椅子と人工呼吸器を使っている。

麻生副総理が終末期医療めぐる発言撤回

2013年01月23日 10時12分15秒 | 難病のこと
ロイター通信 麻生副総理が終末期医療めぐる発言撤回、一般論ではなく私見

終末期の患者を「チューブの人間」と表現するなんて、人間として認めていないような印象を受ける。麻生さんの私見や人生観を語るのは構わないが、国民会議という公の場で患者を「チューブの人間」とする表現はダメ。

昨年、石原伸晃さんが胃ろうを受けている患者を「映画で寄生したエイリアンが人間を食べて生きているみたい」と発言したことよりは全然ましだけど。ちなみに、麻生さんや石原さんが人工呼吸器ユーザーの僕を見て何と発言するか興味はあるが。(笑)

以下は延命治療を受けている僕の意見です。

延命治療拒否という本人の意思表示がある場合は延命治療をしてはいけない。また、延命治療を辞めたい人の意見も尊重する必要がある。でも、本人の意思表示がない場合は延命治療を施す、延命治療を続けたい人には延命を続ける、と生きる権利も法律で明記すべきだ。

こうしなければ、ナチスドイツが国家政策の安楽死プログラムで多くの障がい者や患者を虐殺したように、医療費削減のために、意思表示がない人や延命を続けたい人まで安楽死の名の下に殺すことになりかねない。日本政府も医療費削減が目的なのだから。

ナチスの安楽死プログラムについては
リンク先 安楽死プログラム
に詳しく書いてあります。海外の日本語版サイトなので警告が出ますが、安全なサイトです。

「私は死が恐くない」「私は延命治療を絶対に受けたくない」と言う人々が多くいる。でも、リアルに死を突きつけられたら、そう思えるだろうか?そんな状況に直面すると、人間は「まだ生きたい」と思うんです。もちろんそうではない人もいますが。僕は19歳で死にたくなかったから、延命治療を受けた。

「死なないで。まだ生きていてほしい」と家族や愛する人から泣きながら言われたら、「それでも私は延命治療を受けない」と意思表示ができるだろうか?そのような状況では、それまでの意思表示は激しく揺らぐのです。

だから、延命治療を受けたくない、辞めたい人々の意思のみを尊重するのではなくて、延命治療を受けたい、続けたい人々の意思も尊重すべきです。そのことが置き去りにされている。「死ぬ権利」は声高に叫ばれているのに、「生きる権利」は無視されている。これでは危険だ。

「あのようになってまで生きていたくない」と、そのように生きている人の状態を蔑む、自らの内にひそむ選別の思想こそ振り返る必要があります。安易な安楽死の法制化は、ペースメーカー・人工呼吸器・胃ろう等で延命しながら生きる人々に大きな恐怖を抱かせる。

なぜなら、安易な安楽死の法制化により、個人の「死ぬ権利」は、国家による「死ぬ義務」となり、弱い立場の者に「死ぬことを迫る圧力」になりかねません。「死ぬ権利」があれば、「生きる権利」もあるのです。国家も人々もここまで考えて議論してほしい。



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永遠なる神の愛

2013年01月17日 18時14分21秒 | キリスト教
悪魔の誘惑は、まず人間の欲望・情欲・貪欲に寄り添うように、いかにも親切そうに忍び寄ってくる。次に神様のみ言葉・愛・義に疑問を投げかけ、それに引っかかった人に、神様のみ言葉・愛・義を否定し、神様への不従順(自分が神のようになること)がよりよい結果をもたらすと誘惑する。

「神は愛なり」と言うが、僕に苦難や不治の病を与えた神様に愛はない!と思う時期があった。み言葉を否定しようとした。でも、すでに神様の愛は、イエス様の十字架と復活を通してはっきりと示されている。

そして、福音を信じた時に、原罪が赦され、聖霊が自分の内に住んで下さり、新しく生まれ変わり、神様の子とされている。これこそ永遠に変わらない愛!苦難は神様から見放されていることのしるしではない。すでに神様の子とされているのだから、神様から僕たちを引き離すものは何ひとつないんだ。

僕は不治の病がコンプレックスでした。でも神様の目からは全く違う。病すら賜物なのです。自分のコンプレックスを受け入れ、この自分を愛するために神様は自分を創造してくださった、という神様の愛を感謝して受け取ることか大切なのです。

【新改訳聖書 ガラテヤ人への手紙 3章26節】「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」

♪聖歌232 罪咎(とが)を赦され / worship generation japan♪




①罪咎(とが)を赦され 神の子となりたる
 我が霊(たま)の喜び 比べうるものなし

(くり返し)終日(ひもすがら)証せん 夜もすがら主を誉めん
      御救いは妙(たえ)なり 御救いは奇(くす)しと

②主に全く従い 安き得し我が身に
 ※天津家(あまつや)の歌声 響き来る心地す  

 (くり返し) 

③主のものとせられし 我が身こそ幸なれ
 感謝なき日はなく 賛美なき夜はなし 

 (くり返し) 

※天津(あまつ)・・・天にある
 


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2013

2013年01月05日 16時46分34秒 | 日常
あけましておめでとうございます♪
昨年もこんな僕と交わって下さって感謝の気持ちでいっぱいです。
どうか今年もよろしくお願いします。

大晦日から扁桃腺の風邪をこじらせてしまい、高熱が出たので、今もダウンしています。
熱は微熱になりましたが、まだ喉がとても痛いです。

いくら体調が悪いとはいえ、新年の挨拶がとても遅れてしまって、社会人としてのマナーに欠けていました。
失礼いたしました…。

今年の目標は、証や聖書のメッセージを語るという神様から与えられた使命を果たしていくために、聖書を学ぶ時間や祈る時間をもっと増やして、御霊による成長をしていきたいと思う。

でも、昨年の僕は、使命よりも自分の願望に気を奪われていた。
自分にないものばかりを欲しがっていて、とても苦しかった。

でも、喜びの日々を歩むためには、神様の愛に満たされ、自分に与えられたものだけを磨いていくことが大切なんだ。
喜びを感じられるものは全て自分の中にあると信じたい。

【いまここに生きる / ヘンリ・ナウエン】より

「下へ向かう生き方、すなわち、苦しむ人に近づき、その痛みを共に担うことは、自虐的であり、病的でさえないかと思われます。
貧しい人、病気の人、死にゆく人と共にいて、何の喜びがあるでしょう。

憐れみを求める生き方に、何の喜びがあるというのでしょう。
しかし、アッシジのフランシスコ、シャルル・ド・フコー、マハトマ・ガンジー、アルベルト・シュヴァイツアー、ドロシー・デイ、その他多くの人の生き方は、自虐的であったり、病的であったりしたことはまったくありません。

彼らは喜びを放っていました。
その喜びとは、この世が知らない喜びです。
私たちがマスメディアの言うところに従うなら、喜びは成功から、人の歓心を買うことから、権力を持つことからきます。
たとえそれを得ても、心が重苦しくなったり、欝病になる人さえ珍しくないというのに。

喜びは、憐れみを求める生き方が与えてくれる秘密の贈り物です。
私たちは軽率にも、いつもそれを忘れて他のところに喜びを求めます。
しかしそうではなく、痛みのあるところに私たちが立ち戻るなら、この世にはない新しい喜びをつかむことができます。」


♪古城の月 / 小林旭♪




歌詞はこちら


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