明日を夢見て~神様と筋ジストロフィーと共に生きる~

クリスチャン。デュシェンヌ型筋ジストロフィー患者で電動車椅子と人工呼吸器を使っている。

In Christ Alone

2015年02月24日 17時14分23秒 | キリスト教
親しくしているクリスチャンご夫妻の新しい賛美(カバー曲)です。
ヴォーカルが奥様、演奏が旦那様です。

希望と愛に満ち溢れていて、キリストのご栄光が輝いている賛美♪
よかったら、聴いてもらえたら嬉しいです。(*^_^*)

動画は、英語の歌詞と日本語訳の字幕があります。

♪賛美タイトル
In Christ Alone / Keith & Kristyn Gettyのカバー♪




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不自由は不幸じゃない

2015年02月17日 17時45分52秒 | 日常
【鋼の錬金術師】

「たしかにこの身体だと不自由なことはたくさんある
だけど不自由であることと不幸なことはイコールじゃない
哀れに思われる言われはないよ!」


不自由であることと不幸なことはイコールじゃない・・・。
痛みを伴わない教訓には意義がない。
人は何かの犠牲なしに、何も得る事などできないのだから・・・。

僕は「病気」「不自由な身体」という犠牲から何を得たのだろう。
苦しみで錬られる希望、心の豊かさ、痛みから芽生える優しさ、逆境をはねかえす生きる意志、かたちないものばかりだけど、決して「不幸」というちっぽけなものじゃないことは確かだ。


人は外見や才能、環境を選んで産まれることはできない。
他人の人生と比べてもしょうがない。
ひとりひとりのできることは違うのだから、ひとりひとりの人生だって違っていいはずだ。
たとえ夢見た自分になれなかったとしても、生まれ持った自分、失いながら得てきた今の自分にあるもの、今までの経験や出会い、全てを含めて今の自分が存在している。

僕は生まれながらの病気でなければ、今の自分になれてはいない。
もちろん病気は不自由だ、病気であるが故に嫌な過去もあった。
でも、病気や過去を否定することは、今の自分を否定することになってしまう。
今の自分を受け入れることで、病気や過去を肯定できるんだ。

幸せとは、今得ているもの、今していることを、好きになることから生まれる。
言い換えれば、今得ているもの、今していることを、好きになることで、幸せを感じられる心を手に入れることができるんだ。


【銀河鉄道の夜】

「何がしあわせかわからないです。
本当にどんなに辛いことでも、それが正しい道を進む中の出来事なら
峠の上りも下りもみんな本当の幸せに近づく一足づつですから」


♪BGM♪
がんばらなくてもいいでしょう / 吉田拓郎





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痛み~将来の栄光~

2015年02月10日 18時22分10秒 | キリスト教
僕は人の痛みと自分の痛みを比べることが苦手だ。
「あの人に比べれば、まだ君の痛みはましだ」と言われると、余計に辛くなる。
だから、僕は人に対して、こういうことは言わないようにしている。

でも、イエス様の痛みと自分の痛みを比べるときだけは違う。
全人類の罪という十字架を背負われたイエス様の痛みを思い巡らすと、僕の痛みなんてちっぽけなものだ。

そして、イエス様は十字架で亡くなられた後に、死者の中から復活されて、
罪と死の力に打ち勝ち、愛と希望を示して下さった。

どれほどの痛みを感じていても、乗り越えたとき、喜びを感じることができるし、
人間にとって最大の痛みである死を迎えたとき、
罪と悲惨が何ひとつない栄光の世界に入ることができる、とイエス様は身をもって教えて下さった。

イエス様はいつも共におられるのだから、イエス様と共に苦しみを受けていることが、
すでに将来の栄光が用意されていることの保証なんだ。
栄光を受けるためには、イエス様に倣って苦難の道を歩む必要があるのだから。

この世で味わう苦難は一時的なもので、永遠に神の国で味わう栄光こそ輝かしいものなんだ。
苦難は神の国で神様の子供として生まれ変わるための産みの苦しみなんだ。

【第二コリント4章16~17節 (口語訳)】

「たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである」


♪Be Still My Soul♪
讃美歌298番 「安かれ、わがこころよ」




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神の国は私の内にある

2015年02月03日 19時14分30秒 | キリスト教
なんだか辛いなぁと感じる最近なのですが、
自分のブログを読み返していたら、豊かに慰められた日記があったので、シェアします。

これは、3年前に読んだ、吉田 隆牧師の【ただ一つの慰め『ハイデルベルク信仰問答』の学び】
リンクはこちら
のほんの一部をまとめた感想日記です。(とても主観的な感想です。)

主イエス・キリストは地上での全生涯において
私たちのために苦しまれました。

地上でのすべての時が
苦しみの生涯だったということは
私たちの生涯のすべての時が
イエス様によってすでに担われている
ということです。


イエス様は激しい苦痛の中で十字架で苦しまれました。
全人類を罪から救うために。
私たちが地上の生涯で味わう全ての苦しみを癒すために。

だから
私たちが地上の生涯で味わう全ての苦しみは
イエス様によってすでに担われているのです。

【新共同訳聖書 イザヤ書 46章3~4節】

「わたしに聞け
ヤコブの家よ
イスラエルの家の残りの者よ
共に。
あなたたちは生まれた時から負われ
胎を出た時から担われてきた。

同じように
わたしはあなたたちの老いる日まで
白髪になるまで背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。」


私は病気が悪化していくたびに、心身の痛みは増していく。
病気が治らない限り、または死ぬまで
それは止まることはない。

しかし
生まれたときから死ぬときまでの私の全ての苦しみは
イエス様が十字架において
先取りして、すでに担って下さっていますから
必要以上に心配しなくて良いのですね。。。

だから
私たちはすでに生まれたときから
イエス様によって救われている。祝福されている。
それは苦しんでいる今も
どのような状況に置かれても
決して揺るがないこと。


もちろん、そうは言っても
苦しい現実のなかにいるときはそう思えない。

しかし
確かな保証がある。
それはイエス様が聖霊を私たちの内に送ってくださる
ということ。

その聖霊の御力によって、私たちは
地上のことではなく、天上のことを求めることができるのです。

これがイエス様の聖霊が与えられている証。

肉体を持つ私たちは地上に縛られていて
地上のことを考えずに生きては行けません。

にもかかわらず
その聖霊においては
イエス様のおられる天上のことを求めることができるのです。


【新共同訳聖書 コリントの信徒への手紙 二 1章21~22節】

「わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け
わたしたちに油を注いでくださったのは神です。

神はまた
わたしたちに証印を押して
保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました」


聖霊が与えられるとは
天国が私のもとに与えられるに等しいことです。
私が天国に昇るのでなく
天国が私の内に来てくださる。
地上にいながら、未だ罪人でありながら
神の国が私の中に訪れてくださるのです。


【新改訳聖書 ルカの福音書 17章20~21節】

「神の国は
人の目で認められるようにして来るものではありません。
『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか
言えるようなものではありません。
いいですか。
神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」


そして
聖霊は何か特別な人だけに与えられるものではありません。
神様を幼子のように慕い求める人々すべてに
天の神様がくださる愛のプレゼント。


【新共同訳聖書 ルカによる福音書 11章13節】

「このように
あなたがたは悪い者でありながらも
自分の子供には良い物を与えることを知っている。
まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」


とはいえ確かに、人間の生きる現実は苦しい。
また
病気を受け入れたと感じても
私は病気が進行していくたびに
どうすることもできない悲しみに捕らわれてしまう。

しかし、そのような時でさえ
私の内には聖霊がいてくださるし、私の内には神の国があります。
不自由だらけの私の身体も、神様の神殿なのです。


このことに感謝していきたい。\(*^▽^*)/




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