24日に、僕が出演した「キリストへの時間(ラジオ関西)」の録音が、以下のホームページに掲載されました♪
よろしければ聴いてくださると嬉しいです。
ガラケーでネットをしていて、録音が聴けない方のために、以下に原稿を掲載しました。<(_ _*)>
(こちらをクリックしてください) リンク先 「キリストへの時間」 8月24日
タイトル「何もできないような病の身体であっても」
【新共同訳聖書 ローマの信徒への手紙12章1節】
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
先週はイエス様の憐れみについてお話しました。イエス様は私たち人間を罪と死から救うために、十字架でご自身をいけにえとして献げられました。イエス様のおかげで、私たちイエス様を信じるクリスチャンは、信仰により救われ、罪が赦され、復活の命が与えられ、聖霊なる神様が心に住まわれ、神の子とされました。イエス様にあって数々の祝福が与えられました。私たちにはこのような憐れみが与えられて、神様の愛を受けているのですから、神様の愛にかりたてられて、自分自身を神様に献げて生きることが大切です。
今日の御言葉にある「なすべき礼拝」の「なすべき」という言葉は、原文ギリシア語では「ロギコス」です。「ロギコス」は「霊的な」という意味です。聖書で「霊的な」と言う場合、それは「神の言葉に基づいた」という意味です。つまり、礼拝とは、神様の言葉に従って自分を献げることなのです。
神様に自分を献げて生きることは神礼拝そのものです。クリスチャンは心だけでなく、自分の身体も、自分の全てを神様に献げます。今日の御言葉にある「聖なる」とは、神様のために取っておかれたという意味ですが、クリスチャンにとって毎日の生活のすべては神様のために取っておかれるものなのです。
私たちはこの世に生きていながらも、この世に属するのではなく、イエス様によって救われた神様の子どもとして、新しい人生を生き始めています。だからこそ、聖書を読むたびに、祈るたびに、教会の礼拝に集うたびに、神様の子どもとしての生き方を繰り返し示されながら、私たちの暮らす社会で毎日の生活のすべてを神様に献げるのです。学校にあっても、職場にあっても、家庭にあっても、病院で入院していても、私たちは神様のものなのです。毎日の生活が礼拝だと思って神様のご栄光をあらわしていくのです。
旧約聖書時代の動物のいけにえは、イエス様がご自身を献げられたことによって、永遠に不要になりました。しかし、自分を献げる生けるいけにえは、常に求められています。
いけにえが神様に喜ばれるためには、神様の御心に一致したものでなければなりません。クリスチャンは聖書の御言葉と祈りを通して心を新たにでき、毎日の生活が神様の御心と一致して、自分が神様に喜ばれる聖なる生けるいけにえとなるように、生き方が変えられていきます。
私は御言葉と祈りを通して生き方が変えられていると感じています。私はデュシェンヌ型筋ジストロフィーという難病を抱えています。この病は遺伝子の異常により、次第に全身の筋肉が壊れてゆく進行性の難病で、現代の医学では治療法がありません。今の身体の状態は、人工呼吸器がなければ命を維持できません。自由に身体を動かせるのは手の指だけです。余命は残り12年です。
病の進行で、ますます身体が動かなくなって、以前は当たり前のようにできていた事ができなくなります。それが死ぬまで繰り返されます。だから、これから先、ますます身体が動かなくなることや早く死ぬことが恐くてたまらなくなります。
だから、数年前までは病の自分が嫌いでした。こんな何もできないような病の身体で、毎日の生活を通して神様のご栄光をあらわしていくことは無理だと思っていたんです。早く死へと向かう自分の病が永久に変わらない欠陥だと思っていたんです。
私は病の進行でますます身体が動かなくなることや早く死ぬことが恐くて、いつも思い煩っていましたが、自分の意志と人生を明け渡して、自分の体を神様に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げるんだ、できなくなったことや動かなくなった体の部分は神様にいけにえとして献げたものなんだ、と思うようになったら、思い煩いから解放されました。
そして、いつも御言葉と祈りを味わい、神様との交わりがますます親密になることで、新しい自分になって、神様のご栄光をあらわす者になっていけるのだから、何もできないような病の身体であっても、毎日の生活を通して神様のご栄光をあらわしていけるんだと思えるように変えられました。
歳を重なるごとに、私の病の体は死に向かって衰えていくけど、天国で完全な神の子どもになる未来を目指して、霊的には栄光から栄光へと造り変えられていることに、感謝を献げられるように変えられました。私にとって神様に自分を献げて生きることは本当に喜びなんですね。
では最後に「生きた供え物として」という賛美をお聞きください。
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ありがとうございます。
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「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
先週はイエス様の憐れみについてお話しました。イエス様は私たち人間を罪と死から救うために、十字架でご自身をいけにえとして献げられました。イエス様のおかげで、私たちイエス様を信じるクリスチャンは、信仰により救われ、罪が赦され、復活の命が与えられ、聖霊なる神様が心に住まわれ、神の子とされました。イエス様にあって数々の祝福が与えられました。私たちにはこのような憐れみが与えられて、神様の愛を受けているのですから、神様の愛にかりたてられて、自分自身を神様に献げて生きることが大切です。
今日の御言葉にある「なすべき礼拝」の「なすべき」という言葉は、原文ギリシア語では「ロギコス」です。「ロギコス」は「霊的な」という意味です。聖書で「霊的な」と言う場合、それは「神の言葉に基づいた」という意味です。つまり、礼拝とは、神様の言葉に従って自分を献げることなのです。
神様に自分を献げて生きることは神礼拝そのものです。クリスチャンは心だけでなく、自分の身体も、自分の全てを神様に献げます。今日の御言葉にある「聖なる」とは、神様のために取っておかれたという意味ですが、クリスチャンにとって毎日の生活のすべては神様のために取っておかれるものなのです。
私たちはこの世に生きていながらも、この世に属するのではなく、イエス様によって救われた神様の子どもとして、新しい人生を生き始めています。だからこそ、聖書を読むたびに、祈るたびに、教会の礼拝に集うたびに、神様の子どもとしての生き方を繰り返し示されながら、私たちの暮らす社会で毎日の生活のすべてを神様に献げるのです。学校にあっても、職場にあっても、家庭にあっても、病院で入院していても、私たちは神様のものなのです。毎日の生活が礼拝だと思って神様のご栄光をあらわしていくのです。
旧約聖書時代の動物のいけにえは、イエス様がご自身を献げられたことによって、永遠に不要になりました。しかし、自分を献げる生けるいけにえは、常に求められています。
いけにえが神様に喜ばれるためには、神様の御心に一致したものでなければなりません。クリスチャンは聖書の御言葉と祈りを通して心を新たにでき、毎日の生活が神様の御心と一致して、自分が神様に喜ばれる聖なる生けるいけにえとなるように、生き方が変えられていきます。
私は御言葉と祈りを通して生き方が変えられていると感じています。私はデュシェンヌ型筋ジストロフィーという難病を抱えています。この病は遺伝子の異常により、次第に全身の筋肉が壊れてゆく進行性の難病で、現代の医学では治療法がありません。今の身体の状態は、人工呼吸器がなければ命を維持できません。自由に身体を動かせるのは手の指だけです。余命は残り12年です。
病の進行で、ますます身体が動かなくなって、以前は当たり前のようにできていた事ができなくなります。それが死ぬまで繰り返されます。だから、これから先、ますます身体が動かなくなることや早く死ぬことが恐くてたまらなくなります。
だから、数年前までは病の自分が嫌いでした。こんな何もできないような病の身体で、毎日の生活を通して神様のご栄光をあらわしていくことは無理だと思っていたんです。早く死へと向かう自分の病が永久に変わらない欠陥だと思っていたんです。
私は病の進行でますます身体が動かなくなることや早く死ぬことが恐くて、いつも思い煩っていましたが、自分の意志と人生を明け渡して、自分の体を神様に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げるんだ、できなくなったことや動かなくなった体の部分は神様にいけにえとして献げたものなんだ、と思うようになったら、思い煩いから解放されました。
そして、いつも御言葉と祈りを味わい、神様との交わりがますます親密になることで、新しい自分になって、神様のご栄光をあらわす者になっていけるのだから、何もできないような病の身体であっても、毎日の生活を通して神様のご栄光をあらわしていけるんだと思えるように変えられました。
歳を重なるごとに、私の病の体は死に向かって衰えていくけど、天国で完全な神の子どもになる未来を目指して、霊的には栄光から栄光へと造り変えられていることに、感謝を献げられるように変えられました。私にとって神様に自分を献げて生きることは本当に喜びなんですね。
では最後に「生きた供え物として」という賛美をお聞きください。
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